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【2025/01/22 22:54 】 |
廿日市市 極楽寺 御本尊御開帳
四月十七日(日) 日本三景の安芸の宮島を眼下に望
む、絶景
ビューにある標高663mのもみの原生林に囲
まれた極楽寺山山
上にある上不見山浄土王院極楽寺
において、御本尊 十一面千
手観音菩薩坐像が御開
帳された。坐像高
206センチの一木造りで、およそ千年
ほど前の平安中期の作と伝わる。


寺伝によれば、天平九年(737)行基が当山頂の杉の霊
木で千手
観音を刻み、本堂を建て開山した。その後、
弘法大師が開眼
供養され、寺の再興がはかられた。
極楽寺の変遷について、
諸控に『文治三年後鳥羽院
御願依り佐藤則清再建天文十年四月
焼失永禄五年
八月毛利元就朝臣御再建』とある。
平安中期以降でき
た極楽寺本堂は破損したので、今から
821年前、後鳥
羽院の御願依り、文治三年(
1187)に佐藤則清
(のりきよ・・・・義清・範清とも書く・・・・西行法師の
称)により再建した。ところが、天文十年(
1541)に焼失
てしまったのである。そして荒廃していたので、永禄
五年
(1562)八月 毛利元就が再建したのである。

かって当寺院にも求聞持堂があった。木造板半肉彫
虚空蔵菩薩
(木造版はんにくぼりこくぞうぼさつぞう
)が本尊であり、
現在は阿弥陀堂内にて保管されてい
る。求聞持堂は、百日間、
百万遍の真言を唱える密教最大の苦行であるという
修行の場で
ある。
虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)は『ノウ ボ

 アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ 
ソワカ』の真言を百日間 百万遍か五十日間で二百
万遍、つま
り一日一万か一日二万遍唱和するのであ
る。五十日間だと一日
二回(一回一座一万遍を二座)拝む。一座およそ六時
間を二座
とはまさに苦行である。

延宝年の鐘の鐘銘(しょうめい)によると、600数十メ
ートル
もの山にある当寺の鐘を賊が盗んでしまったと
いう。いったい
どうやって麓まで運んだものやら。古く
は平清盛・大内・毛利・
豊臣秀吉・福島正則などが庇
護していたが、江戸の世に入ると、
徳川幕府は厳島
神社をはじめ極楽寺など一切の寺社に対する支
援交付金は拠出しなかった。そのため極楽寺は、宝
永元年・天
明八年・寛政二年・文政三年(1820)など
の修理は、有力大檀那
の尽力によりなされ、今に伝
えられているのである。

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【2011/04/23 09:22 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
廿日市 極楽寺の不思議な位置
極楽寺は宮島の弥山よりも高く、標高六六三㍍の極楽寺山頂にある。
天平九年(七三七)行基菩薩 この山の杉の霊木で千手観音を刻み、
のち、弘法大師により開眼供養された。
平安時代九世紀に、観音信仰が盛んとなり、千手観音など変化観音を
本尊とする寺院が多くなり、十世紀末には、霊験ある観音寺院への参
詣が盛んとなる。極楽寺は、厳島弥山の頂上・厳島神社・対岸にある
外宮の地御前神社の真北の線上にあるという。これは何を意味するの
か、謎である。

【2011/04/23 09:21 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(10)
◆歴史の陰に葬り去られた功名を論ぜられぬ裏事情とは◆

堀田仁助の東蝦夷地航路開拓の翌年、寛政十二年(1800)「伊能忠敬の蝦夷地第一次測量 幕府への交渉記(測量日記第一巻)」四月七日の項上下段(下図加工図)にあります。そこには明らかに“仁助の功成り名遂げられぬ要因”が行間から読み取れるのです。
 
伊能忠敬の「測量日記第1巻」 11~12頁
「寛政十二年(1800)四月四日 目付羽太左衛門より伊能忠敬の師高橋至時へ手紙、伊能勘解由事七日四ツ時(午後十時頃)松平信濃守宅寄合へ差出すようにとのこと。
細身権十郎の案内で書院番頭松平信濃守忠明宅の奥の間へ罷出(まかりい)で、信濃守、勘定奉行石川、目付羽太列席の次の間に而(て)、信濃守に「堀田と図」についていろいろ尋ねられるのです。
勘解由は海上は不得手の上、長々の船中は難渋と申し上げる。」
勘解由の本心は師高橋至時に指摘された「子午線一度の長さ(緯度一度の南北の長さ)」を求めることと、幕府直捌(じかさばき)の東蝦夷地の警護のための精密な地図を作ることにあり、陸路でないと正確な測量ができないことから、船は難渋と官僚に丁重に断ったという、したたかさが垣間見えるのです。
「その後信濃守は「海上測量は向後(きょうこう・今後)御船通航之為、堀田仁助へ測量申付致為候(もうしつけいたさせそうろう)。
是(これ)も帰りは乗船致さず、陸を帰り候(そうら)はば不埒之(ふらちの)よし仰(おうせ)せらるる候(そうらえ)て・・・(中略)・・・堀田仁助を存じ居(お)り候哉(そうろうや)と再三仰(おうせ)らるる候間(そうろうあいだ)、存候(ぞんじそうろう)と申上候(もうしあげそうろう)。・・(中略)」
信濃守は今後の海上交通のため、堀田に船上での測量を命じたにもかかわらず、帰りは陸路とは不埒(けしからぬ)と激怒したのであろうか。・・・これが仁助の事蹟の致命的な評価の要因か・・。
さらに勘解由に堀田を知っておるかと再三聞かれ、存候と申上候 と云ってますが、派が違うためと、日々多忙で、おそらくほとんど接触ははなかったでしょう。
「信濃守様御自身蝦夷之図を二枚御出し被遊、此の内一枚は堀田仁助が去年致す所なり。麁(そ・大まか)なるべけれ共、大差もあるまじ、・・・(中略)」
ここでとくに解(げ)せないのは、何故、信濃守は、「不埒之」とか仁助の事績を否定するようなことを、わざわざ伊能忠敬に話すのかということです。
奇(く)しくも、「寛政の改暦」で辛酸を舐めた仁助の師・渋川正清(主水・もんど)は、五十二歳の仁助が出帆予定の十二日前、寛政十一己未(きび)年六月十五日 五十六歳で没するのです。この時松平信濃守は松前に滞在していました。
伊能忠敬は寛政十二年二月から四月十四日、広義のお墨付を得る二ヶ月の間、幾度となく蝦夷地取締御用掛の松平信濃守、石川左近将監(さこんのじょう)、羽太(はぶと)庄左衛門(のちに「休明光記」を著わす)などと会合し、最大の課題である海路を陸路にと、結局はよきに計らってもらっているのです。
堀田仁助の東蝦夷地航路開拓の翌年、寛政十二年に羽太は蝦夷地取締御用掛の松平信濃守のもと、幾度となく伊能忠敬の蝦夷地第一次測量の幕府への交渉に立ち会っており、羽太はその間の事情は熟知していたのは明白です。にもかかわらず、羽太正養(はぶとまさやす)はその著「休明光記巻之1」文化4年(1807)成立において、錯誤の記述をしているのは、何か裏に歴史の陰に葬り去らなければならない事情があったと考えられるのです。


【2011/04/22 12:17 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(9)
帰途は舩ではなく陸路であった。
 
東蝦夷地の沿岸を測量しつヽ十月九日箱館  松前に達した。
三馬屋湊(みんまやみなと・現青森県三厩・みんまや)より江戸迄之道中記別紙有之
寛政十一己未(きび)年六月廿七日
御舩神風丸尓乗江戸出帆ス東蝦夷悪消
と云所へ同年八月廿九日入津ス夫より陸地
松前通津軽南部仙臺(せんだい)江掛り江戸江着ス
 
九月五日悪消出立
十一月十五日江戸着
日数七十一ヶ日道中也
 
天文方渋川主水手傳堀田仁助門弟
(てんもんかたしぶかわもんどてつだいほったにすけもんてい)
文化元甲子(かっし)年十一月鈴木ヲ改清書□ 
鈴木周助ヨリ借写 源中控
 
こうして仁助の門弟鈴木周助の「蝦夷地開発記」の記述は終わっています。 
「蝦夷地開発記」は、寛政11年(1799)成立の堀田仁助門弟鈴木周助が記した蝦夷地渡航、東蝦夷地厚岸から松前までの行程記録です。
実は、元北海道大学名誉教授高倉新一郎氏が、今はなき札幌尚古堂に於いて、文化元甲子年(1804)11月源中なる人物が鈴木から借写したもので、仁助に巵従(こしょう・貴人に付き従うこと)して蝦夷地に赴いた道中手扣(てひかえ・手控)の「蝦夷地開発記/鈴木周助」を発見されたことで、それまでの「羽太正養(はぶとまさやす)休明光記(きゅうめいこうき)巻之1」文化4年(1807)成立では「政徳丸」に乗ったはずの仁助のことが一つも見当たらないという疑問が「蝦夷地開発記」の記事により氷解された。それは新船「神風丸」であったと。
堀田仁助に関する史料はほとんどなく、その業績は一部に知られているくらいで、一般にはほとんど知られていません。
 
あの伊能忠敬が蝦夷地測量に向かったのは、寛政十二年(1800)閏(うるう)四月十九日です。五十二歳の伊能忠敬(五十歳の時に隠居後「勘解由かげゆ」と改名)は、知行所から苗字帯刀を許されているので、「元百姓・浪人」身分、「測量試み」扱いとして、師匠・高橋至時(よしとき)の弟子 門倉隼太(かどくらはやた)、二人の測量助手勘解由の二男伊能秀蔵(しゅうぞう・十五歳)、親類の平山宗平(そうへい)、二人の下男佐原吉助、長助を伴い江戸深川黒江町の勘解由宅を出立したのです。
堀田仁助は凡そ1年前の寛政十一年(1799)6月27日に江戸を立ち、御用舩「政徳丸」の後塵(こうじん)を拝し蝦夷地へは二番乗りも、「神風丸」による安全且つ迅速な東蝦夷地への航路開拓に於いて成功であったと云えるのです。



 
【2011/04/22 09:45 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(8)
堀田仁助(4) 堀田仁助一行の「神風丸」出立の様子に続いて、
蝦夷地アッケシ(悪消)に到り、江戸への帰路の様子について

三月十三日幕命より104いよいよ出立
寛政十一年(1799)六月廿七日、築地で乗船、
翌廿八日、朱塗唐舩、二の丸の帆、御用旗、アヲ・クロ・アカ・シロ・キの五色の吹き流しをなびかせて、品川沖に停泊している「神風丸」に乗込む。
船頭は天明(てんめい)以来御用船の船頭として蝦夷地各地を乗廻した手練(てだれ・腕利き)れの長川沖右衛門、蝦夷地名産の椎茸を見分けに行く杣(そま・木こり)が二人同船している。
寛政十一年(1799七月一日品川を出発
翌二日相州浦賀へ上陸して測量の手始めを行う。五日まで逗留。
六日北に向かって壮圖(そうと・壮大な計画)についた。この時は晴に恵まれ順風満帆鹿島灘も無事乗切る。
十三日御用米積込みのため奥州松島湾内小竹湊に入津。測量をし小竹より東南(東名とうな)へ廻って米盬樽(こめしおたる)等積込む。
廿二日東南出帆。
廿三日牡鹿半島小淵に入津測量。
廿四日小淵を出帆したが荒天霧雨に悩まされ海上を五日漂う。
廿九日矢川(女川・おながわ?)に寄港。
七月晦日釜石着。
八月四日宮古灣着。アッケシに直行する宮古に着いたのが、江戸を出て三十四日目であった。
■寛政十一年(1799)七月は大の月で30 日。陰暦⇔小の月は29日。
宮古で逆風のため風待する事廿日間。二度出航を試みるが何れも途上にて風を失い帰港している。
廿五日申刻順風に付宮古を出帆。
廿六日晴。
廿七日晴東西南北白浪斗。此邊(このあたり)浪高サ凡二丈内外、長サ凡八九十間位、至而(いたって)荒潮尓天(にて)候。
廿八日晴巳刻(午前10時頃)遙向尓(はるかむこうに)薄山見る。
廿九日晴暁方蝦夷山速尓見る。
夕方大黒嶋入無程東蝦夷地アッケシと云所へ申刻(午後4時頃)入津春(す)。
廿九日アッケシ(悪消)に入津。天度を観測、北緯四十三度二十二分と測定。
九月五日迄アッケシ(悪消)に滞在。
大黒嶋は、厚岸湾の外に位置し現在は無人島で、島は特別天然記念物に指定され、コシジロウミツバメやゼニガタアザラシの繁殖地となっている。 


【2011/04/22 09:29 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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