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堀田仁助の痕跡
廿日市市佐方(さがた)の八幡神社に一対の石灯籠があります。石灯籠に刻まれた銘文には「奉獻(ほうけん)文化五年戌辰(ぼしん)年四月十一日建之(これをたつ)天文生堀田仁助藤原泉尹(いずただ)」と刻まれていることが、廿日市市郷土文化研究会による拓本でかろうじてわかります。
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伊能忠敬の「測量日記第1巻」寛政十二年(1800)四月七日によれば、蝦夷地取締御用掛松平信濃守宅の寄合に呼ばれ、罷り出、夜食を頂いた後、細見権十郎の案内で奥の間へ罷り出で、信濃守、勘定奉行石川将監、御目付羽太正養列席にて、信濃守が御尋ねになった。
「先達而乗船え蝦夷測量御用不相勤候儀を御尋に付、海上測量は不得手之上、長々の 信濃守は忠敬に先だって(三月十七日江戸出帆 御舩政徳丸上乗)乗船しなかった理由を海上測量が不得手であること、長い船中が困ることなど申し開きをしている。そして、蝦夷地御用掛筆頭松平信濃守忠明が目指したのは海上航路のための天文測量であり、今後の船の通行のため、堀田仁助に測量を命じたにも拘わらず,帰路に乗船せず、陸路によったのは不埒な行為だとした。 我が国初めての沖乗りによる東蝦夷地直通航路開拓に成功した堀田仁助でしたが、彼のそんな事績は一部の人々にしか知られていないのが現状です。その理由はあの伊能忠敬否殊に彼の師天文方高橋至時の蝦夷地取締御用掛への積極的な根回しから、蝦夷地御用掛の面子を保つため失敗は許されない、至時自身のある目的を成功させるためにあらゆる手段を講じて事に当たった故、蝦夷地御用掛筆頭松平信濃守の一言で仁助の初の天文測量が航海と測量を利用した航路開拓はなかったものとされたからです。 御目付羽太正養は忠敬の記録により確かに同席していたにも拘らず、七年後に著わした「休明光記巻1」の整合性のなさは何の成せるわざか。 (4につづく) |