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【2025/01/23 01:53 】 |
堀田仁助(7)
0cf9f62f.jpeg 
古文書にみえる堀田家の痕跡

「津和野町史第三巻」廿日市蔵屋敷の項“眀治維新前廿日市蔵屋敷絵図の東側の一部”に海に面した長屋に「堀田」とみえます。これが仁助の生家 津和野藩蔵屋敷定詰の堀田家で8191924d.jpegあろうと思われます。








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【2011/04/21 14:48 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(6)
faaee99e.jpeg 
堀田仁助の痕跡
廿日市市佐方(さがた)の八幡神社に一対の石灯籠があります。石灯籠に刻まれた銘文には「奉獻(ほうけん)文化五年戌辰(ぼしん)年四月十一日建之(これをたつ)天文生堀田仁助藤原泉尹(いずただ)」と刻まれていることが、廿日市市郷土文化研究会による拓本でかろうじてわかります。ff69f9d6.jpeg



【2011/04/21 14:32 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(5)
bf38621d.jpeg

堀田仁助は、測量に使用する機器を自ら開発・作成したといわれるが現存しない。残された蝦夷地図、日本地図、世界地図と黄銅製尺度(ものさし)やコンパスなどは、日本学士院に保存されている。

津和野大皷谷稲成神社では、仁助が作成した天球儀と地球儀(木製、直径37㎝、1808)を所蔵されている。特筆すべきことに、非公開の 三種の地図も所蔵されている。(特別小図  堀田仁助写の亀井侯への帰国土産。日本国地理測量之図。東三拾三国沿海測量之図)
ab77b973.jpeg左図は当神社地下宝物庫に保管されている資料群のひとつである日本国地理測量之図収納状況で、島根県指定有形文化財である。

尚、太皷谷稲成神社の「こ」は「鼓」ではなくて「皷」で、「いなり」は「稲荷」ではなく「稲成」である。

堀田仁助の墓は、津和野町 覚皇山永明寺(ようめいじ)の境内の外を5分くらい行った山の急斜面を少しだけ平にした所にひっそりとc832a858.jpeg佇んでいます。














【2011/04/20 21:50 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(4)

54f815fc.jpeg堀田仁助と伊能勘解由(かげゆは隠居後改名)両師の天文方内部における権力関係が色濃く反映されているとし考えられません。忠敬は寛政十二年二月から四月十四日、広義のお墨付を得る二ヶ月の間、幾度となく蝦夷地取締御用掛の松平信濃守、石川左近将監、羽太庄左衛門などと会合し、最大の課題である海路を陸路にと、当然、師である天文方高橋至時の尽力もあって結局はよきに計らってもらっています。
それに対して、寛政の改暦で辛酸を舐めた仁助の師・渋川正清(主水)は、五十二歳の仁助が出帆予定の十二日前、寛政十一己未年六月十五日 五十六歳で没しています。
つまり仁助はお上に対して、病に臥している師の力添えは受けられず、淡々と幕命に従うしかない心境であったと考えられるのです。

 鈴木周助は三月十三日の幕命より、出立する三ヶ月もの期間の幕府との交渉、幕府からの指示、渡航に際しての測量器具の準備等の事情について一切触れていません。
(神風丸図: 蝦夷地開発記 鈴木周助 15・16頁より 画像ソフトでイメージ加工)
 

☆★堀田仁助一行の「神風丸」出立の様子★☆

六月廿七日晴未刻御舩神風丸出帆  大茶舩二艘[但し一艘五人掛 船頭一人水主四人宛] 御用之御印を付    築地門跡へ着ス御用物積入但し御用物之御品左之通   
(■茶舩 河川や港で大型廻船の貨物の運送に用いた小船)
ヲランダ物   同断      (■同断 ほかのものと同じ)       
 天文御道具   イスタラビ  カトラント  御遠目ガ子 
                        御時計   御ジシャク  〆五品於 

御本丸若年寄衆立花出雲守殿(より)堀田仁助へ御渡被成候其外長持一棹但し御紋ユタ ン添御絵付御紋付高張御紋付箱燈灯其外堀田仁助持参之品左之通 象眼義
二糸義、渾天義、天球、地球、星目鑑、其外コマゝ十三品 右茶舩積入其外堀田仁助荷物(ならびに)弟子共之荷物等積入申刻南風強付築地稲荷橋舟相廻ス 夜入翌廿八日暁方順風乗出し品川沖懸在(かかりあり)神風丸乗移候 神風丸御舩今年相劦(そうしゅう)浦賀おゐて出来(しゅったい)スル新舩ナリ


≪神風丸朱塗唐舩仕様 まとめ≫
長サ十九間半、横中幅六間,舮(とも)幅四間、深サ三間、帆柱四尺角二テ長サ十八間半、御舩 御用と書し(のぼり)二本、神風丸御舩と書しノホリ二本、




【2011/04/18 09:50 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
堀田仁助(3)
伊能忠敬の「測量日記第1巻」寛政十二年(1800)四月七日によれば、蝦夷地取締御用掛松平信濃守宅の寄合に呼ばれ、罷り出、夜食を頂いた後、細見権十郎の案内で奥の間へ罷り出で、信濃守、勘定奉行石川将監、御目付羽太正養列席にて、信濃守が御尋ねになった。
先達而乗船え蝦夷測量御用不相勤候儀を御尋に付、海上測量は不得手之上、長々の 船中難渋之段申上候。其後被仰候ば、海上測量は向後御船通行之為、堀田仁助へ申付測量為致候。是も帰は乗船不致、陸を帰候ば不埒之よし被仰候而、陸地にては、中々海路は相知れ申間敷被仰候間、御答申上候ば、蝦夷地より奥州、常陸・・・(中略)御当地迄、海辺北極度方位連側仕候得ば、海上之測量と違、真の方位里数海路相分り候段申上候。」
信濃守は忠敬に先だって(
三月十七日江戸出帆 御舩政徳丸上乗)乗船しなかった理由を海上測量が不得手であること、長い船中が困ることなど申し開きをしている。そして、蝦夷地御用掛筆頭松平信濃守忠明が目指したのは海上航路のための天文測量であり、今後の船の通行のため、堀田仁助に測量を命じたにも拘わらず,帰路に乗船せず、陸路によったのは不埒な行為だとした。
我が国初めての沖乗りによる東蝦夷地直通航路開拓に成功した堀田仁助でしたが、彼のそんな事績は一部の人々にしか知られていないのが現状です。その理由はあの伊能忠敬否殊に彼の師天文方高橋至時の蝦夷地取締御用掛への積極的な根回しから、蝦夷地御用掛の面子を保つため失敗は許されない、至時自身のある目的を成功させるためにあらゆる手段を講じて事に当たった故、蝦夷地御用掛筆頭松平信濃守
の一言で仁助の初の天文測量が航海と測量を利用した航路開拓はなかったものとされたからです。
御目付羽太正養は忠敬の記録により確かに同席していたにも拘らず、七年後に著わした「休明光記巻1」の整合性のなさは何の成せるわざか。
(4につづく)




【2011/04/18 09:09 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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