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【2025/01/22 17:52 】 |
厳島神社歴代神主

野坂文書 428厳島社宮居年記并神主職次第によれば

(端書書)
「此分都而書付候、不出番外第三号甲と同文、殊に親直洩タリ」
厳島大明神始御宮居之御事
 
一 推古天皇御宇瑞正五年葵丑(きちゅう)、至于今八百六十三年也、
 
一 高倉院當社御参詣事治承二年戊戌(ぼじゅつ)、至于今二百七
十九年也、
 
一 順徳天皇御宇貞応二年葵十二月二日庚午(こうご)申時社頭
炎焼、已後八箇年間御殿并御玉殿依有御造営、寛喜二年庚寅
こういん)九月十六日ヨリ営にて、同三年辛夘(しんぼう辛卯カ)二月二日己未(きび)有御遷宮、十一年之間悉
ことごとく)造云々、
 
一 神主職根本之次第
斎院次官
親能(ちかよし) 左馬頭源義朝之養子 建久五年甲寅
こういん)初入武家
(藤原姓)
親実(ちかざね) 周防前司 承久三年辛巳(しんし)神主職御給也
 
親光(ちかみつ) 安芸守 八条院蔵人
 
親定(ちかさだ) 下野守 一級内昇殿
 
親範(ちかのり) 兵庫守(頭)周防守 金剛寺殿
 
親顕(ちかあき) 蔵人大夫 下野守 小幡合戦討死 建武三
丙子(へいし)正月十六日
 
(追筆)
親直(ちかなお) 掃部頭 下野守 龍翔寺殿
 
親詮(ちかあきら) 左近大夫将監 掃部頭 親成寺殿 
於豊前国小倉逝去
 
親弘(ちかひろ) 左近大夫将監 安芸守
 
親景(ちかかげ) 安芸守
 
親藤(ちかふじ) 掃部頭 下野守 宝寿寺殿
 
教親(のりちか) 掃部頭 下野守 自斎院次官親実當代ハ子今
掃部頭神主職十一代承久三年丙子(へいし)
至當年二百卅
宗親(むねちか) 掃部頭 薬師院殿
 
興親(おきちか) 又四朗殿 陽光寺殿 従此代神主職断絶然
所自興藤代神主建立
 
 (友田姓)
兼藤(かねふじ) 藤太郎殿 (友田興藤の兄の子)
 
興藤(おきふじ) 兵部少輔 上野介(友田興親の従兄弟にあたる)
 
廣就(ひろなり) 掃部頭 (国人領主としては最後の代となった
厳島神主。友田興藤の弟) 
 
 
元来、厳島神主家は安芸国造であった佐伯氏が世襲していたが、鎌倉期の承久の乱(1221)後、京方に通じていた佐伯氏は京方の敗北に伴い、「神主には佐伯鞍職子孫をもって任じ異性の他人を神主となすべからず」という厳島神主職規範に反し、幕府御所奉行・周防国守護等の要職を歴任していた幕府御家人・藤原親実が神主職に補任された。以来、他の国人領主らの神領押領を防御しつつ、安芸国西部を中心とした社領(厳島神領)とその在地支配を担う家臣団(厳島神領衆)を支配する有力な国人領主でもあった。
 
天文十年(1541)大内氏の攻撃を受け、友田興藤が桜尾城において火を放ち自害、五日市城に逃れた廣就も自害したため、厳島藤原姓神主家は滅亡した。その後の厳島神主家は、佐伯氏が世襲し、現在は野坂氏に受け継がれているのである。

尚、参考にした「神主職根本之次第」(野坂文書428号)とは別に「厳島社神主家系図寫」(新出厳島文書161号)もあるが、若干その記述に違いが認められる。


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【2011/04/28 09:18 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
桜尾城
b17d8708.jpeg
 芸藩通志巻55城墟(じょうきょ)の「桜尾」の項によれば、
『廿日市にあり、海に臨む、相伝う、周防前司(ぜんじ・前の国司)藤原親実、鎌倉より来り、厳島の祠官たり、親実より塁世城居し、十五世興藤、陶隆房等に攻られて、父子倶に滅しぬ、後毛利氏より、桂元澄を置て守らしむといふ、此城もと、蒲範頼の後、吉見氏所築とす』さらに『桜尾、谷宗尾、宗高尾、藤掛尾、越峠尾、岩戸尾、篠尾までの七所を「七尾城」と称す』とある。
中世廿日市を象徴するこの桜尾城が厳島神主藤原氏の居城であった。
(上図:海に面していたころの桜尾山)

また廿日市町史通史編(上)中世山城の遺跡の項では、『かって桜尾城跡は第一郭の三角形の本丸が七百平方㍍、3.5㍍下がって南東に第二郭の二の丸三百五十平方㍍、1㍍下がって第三郭東の丸二百五十平方㍍、南西に第四郭が犬走りで第二郭に通じていた。』とあり、城西麓の居館から登山道が第四郭に通じていたと考えられている。
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友田興藤は、大永三年(1523)に続いて再び大内氏に反旗をひるがえした。天文十年(1541)三月九日、十九日と藤掛で興藤方と交戦、大内義隆自身も三月十八日に岩国から大野の門山に本陣を移し、二十三日にはさらに七尾に進んで桜尾城を包囲する作戦にでた。今回の情勢は興藤方に不利と判断した友田興藤に従属していた神領衆の羽仁、熊野氏らは天文十年(1541)四月五日夜半大将への忠義をかなぐり捨て、戦わずして一斉に桜尾城を抜け出してしまった。興藤は城に火を放ち切腹をした。
神主の廣就はというと栗栖氏に伴われて城を抜け出し五日市城に入ったが、翌六日には五日市城も大内方に包囲されたため、五日市城主宍戸弥七郎は神主の廣を説得し切腹させて、大内方に降伏した。
「棚守房顕覚書」(19)によれば、
『其時ノ有様、掃部頭(廣就)事外精兵強弓成れば、防州ノ陣二矢ヲ三筋射、弓ヲ切リ折リ、腹ヲ切ラル、頭ヲ取リ鞁(かわ)ヲケ(桶)二入レテ、弘中三州二渡ス、三州請ケ取リ七尾ニテ九日御実検ナリ

弘治元年(1555)の厳島合戦では、桜尾城は毛利軍の本陣となり、陶晴賢に勝利した毛利元就は桜尾城において陶晴賢の首実検を行った。天正十五年(1587)には、九州の島津征伐に向かう途中、あの豊臣秀吉が桜尾城に着陣した。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦後、毛利氏は防長へ転封(てんぽう)となり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城は次第に荒廃し、西麓の居館跡地に寛永八年(1631)石州津和野藩の御船屋敷ができた。  (削平前の桜尾城跡実測図)
 
桜尾城は宮島街道と西国街道に挟まれた標高31㍍の城山で、厳島合戦後、桜尾城主となった毛利氏重臣桂元澄の末裔で、総理大臣を三回経験した山口県出身の桂太郎氏が大正元年(1912)当地に寄贈し、昭和42年頃から阿品の埋め立て用土砂採掘場となり、10㍍ほど削平され、桂公園として今年の春(2011年)も公園内の桜は満開を迎えた。


 
【2011/04/27 09:15 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
廿日市の古刹「洞雲寺」周辺の現在と過去(2)
「洞雲寺」周辺の現在(2011年4月24日)
0bc5911d.jpegJR廿日市駅北側に宅地や商業地を一体的に整備する「廿日市駅北土地区画整理事業畑口寺田線改良工事」によもので、区画整理の対象地区は、JR廿日市駅―市立佐方小学校間の下平良、平良山手、佐方地区16.2㌶、総事業費は百十五億円。同地区の地権者は約二百人。都市計画道路畑口寺田線の一部、幅18―17.5m、長さ千mが基幹道路として区域中心部を東西に抜ける。駅北口からは幅20m、長さ百mの駅北線が佐方小方面に伸び、広さ3300㎡の駅前広場を設ける。1984年に旧廿日市町で計画されたが、2009年9月頃から開発が着手された模様である。事業施工期間は平成30年(2018)3月31日としている。
JR廿日市駅北の洞雲寺周辺一帯は、昨日424日朝撮影した写真でわかるように、その情況は一変していた.のです。
30b8a530.jpeg
【2011/04/25 09:24 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
廿日市の古刹「洞雲寺」周辺の現在と過去(1)
   【2008年5月8日撮影】                     2e4b8097.jpeg                           
今、市内で一番昔の面影が変わっている地域。それは廿日市市佐方1071-1  曹洞宗 洞雲寺周辺です。
洞雲寺は桜尾城址の北、現在のJR廿日市駅の北にそびえる極楽寺山麓南側に位置する曹洞宗の寺院です。長享元年(1487年)、今から520年前、厳島神社神主藤原教親が、当時、西の京といわれ文化の中心であった周防の龍文寺の金岡用兼禅師を招き開山した神主家の菩提寺です。
境内には厳島神主家であった藤原氏一族と、藤原神主家が滅んだあと桜尾城に関係した毛利家の桂元澄・毛利元清夫妻及び厳島合戦で毛利元就に敗れ
 
た敗将の陶晴賢など廿日市市内で戦国時代の歴史上有名な侍の墓が今でも残っている名刹です。
◆曹洞宗とは、1227年道元によって日本にもたらされた、臨済宗とならぶ禅宗の二大宗派。
◆周防とは、旧国名のひとつ。山口県南部・東部に相当。防州。
◆神主藤原教親(のりちか)
◆金岡用兼禅師(こんこうようけんぜんじ)
 e3af99c7.jpeg【2007年9月14日撮影】
【2011/04/25 08:42 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
西国街道と宿駅(4)

 寛文(1661)から正徳(1711)にかけて諸大名の参勤交代などで西国街道の交通量が増えてからこれに徴発される人馬数も次第に増え、宿駅に常備された人馬のみでは到底賄えられなくなった。これはいずこの諸国も同じ状況に陥っていた。そのため、「助郷(すけごう)」制度が設けられた。宿駅常備の人手や馬で足りなくなると助郷にお触れを出して応援を頼み人馬の不足分は郡内の村落から徴発しょうという制度であった。

当時佐伯郡には八三ヶ村あり、二四ヶ村を除く五九ヶ村に人夫か人馬が割賦され、また除かれた二四ヶ村の内能実島一六ヶ村、草津井口、海老塩浜、地御前、黒川、小方は浦方(漁村・海辺の称)に属するため水主役(かこやく)・・・海上交通の義務を負った。負担を免除された飯山・中道は山間僻地で人馬調達の負担に耐えがたく割賦されなかったと推測されるのである。人夫と馬の両方を出しているのは宿駅の廿日市・玖波両駅と倉重村(現 広島市佐伯区)・下平良村(現 廿日市市)・和田村(現  広島市佐伯区)のみであった。これら助郷人馬には、公定の御定め賃銭が支払われたが、低く抑えられていたので到底実費を賄うまでに至らずその不足は郡・村の郡割・村割の「足銀(足し銀)」が使われた。助郷で割賦された人馬は村全体の責任で果たす義務があり、その賃銭の不足分についても郡村民全体の負担により賄われるべきものとさていた。この助郷役の負担は、村の財政と農民の生活を極度に圧迫する最大の原因となった。
幕府は各街道筋に宿駅を設けて、公用の旅行者や荷物を宿駅から宿駅へと送る伝馬制度を敷きこれに必要な人手や馬を常備することを各宿駅に義務付けた。さらにその補充として、宿駅周辺の村々に課役を負わせたのが助郷(すけごう)制度である。しかし、低廉な御定め賃銭のもとで廿日市宿駅の負担は一層増大し、天保十年(1839)四月に幕府は御定め賃銭の二割り増しを五年間許可するほど疲弊の度を深めていった
幕末期になると多くの宿駅が破綻寸前に追い込まれていた。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国の通商使節ペリーが来航し長い鎖国が終焉を迎え、極限状態にあった宿駅制度は明治5年、新政府の手で廃止されたのである。

【2011/04/24 14:18 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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