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野坂文書 428厳島社宮居年記并神主職次第によれば
(端書書)
「此分都而書付候、不出番外第三号甲と同文、殊に親直洩タリ」
厳島大明神始御宮居之御事
一 推古天皇御宇瑞正五年葵丑(きちゅう)、至于今八百六十三年也、
一 高倉院當社御参詣事治承二年戊戌(ぼじゅつ)、至于今二百七
十九年也、
一 順徳天皇御宇貞応二年葵十二月二日庚午(こうご)申時社頭
炎焼、已後八箇年間御殿并御玉殿依有御造営、寛喜二年庚寅
(こういん)九月十六日ヨリ営にて、同三年辛夘(しんぼう辛卯カ)二月二日己未(きび)有御遷宮、十一年之間悉
(ことごとく)造云々、
一 神主職根本之次第
斎院次官
親能(ちかよし) 左馬頭源義朝之養子 建久五年甲寅
(こういん)初入武家
(藤原姓)
親実(ちかざね) 周防前司 承久三年辛巳(しんし)神主職御給也
親光(ちかみつ) 安芸守 八条院蔵人
親定(ちかさだ) 下野守 一級内昇殿
親範(ちかのり) 兵庫守(頭)周防守 金剛寺殿
親顕(ちかあき) 蔵人大夫 下野守 小幡合戦討死 建武三
丙子(へいし)正月十六日
(追筆)
親直(ちかなお) 掃部頭 下野守 龍翔寺殿
親詮(ちかあきら) 左近大夫将監 掃部頭 親成寺殿
於豊前国小倉逝去
親弘(ちかひろ) 左近大夫将監 安芸守
親景(ちかかげ) 安芸守
親藤(ちかふじ) 掃部頭 下野守 宝寿寺殿
教親(のりちか) 掃部頭 下野守 自斎院次官親実當代ハ子今
掃部頭神主職十一代承久三年丙子(へいし)
至當年二百卅
宗親(むねちか) 掃部頭 薬師院殿
興親(おきちか) 又四朗殿 陽光寺殿 従此代神主職断絶然
所自興藤代神主建立
(友田姓)
兼藤(かねふじ) 藤太郎殿 (友田興藤の兄の子)
興藤(おきふじ) 兵部少輔 上野介(友田興親の従兄弟にあたる)
廣就(ひろなり) 掃部頭 (国人領主としては最後の代となった
厳島神主。友田興藤の弟)
元来、厳島神主家は安芸国造であった佐伯氏が世襲していたが、鎌倉期の承久の乱(1221)後、京方に通じていた佐伯氏は京方の敗北に伴い、「神主には佐伯鞍職子孫をもって任じ異性の他人を神主となすべからず」という厳島神主職規範に反し、幕府御所奉行・周防国守護等の要職を歴任していた幕府御家人・藤原親実が神主職に補任された。以来、他の国人領主らの神領押領を防御しつつ、安芸国西部を中心とした社領(厳島神領)とその在地支配を担う家臣団(厳島神領衆)を支配する有力な国人領主でもあった。
天文十年(1541)大内氏の攻撃を受け、友田興藤が桜尾城において火を放ち自害、五日市城に逃れた廣就も自害したため、厳島藤原姓神主家は滅亡した。その後の厳島神主家は、佐伯氏が世襲し、現在は野坂氏に受け継がれているのである。
尚、参考にした「神主職根本之次第」(野坂文書428号)とは別に「厳島社神主家系図寫」(新出厳島文書161号)もあるが、若干その記述に違いが認められる。 PR |
「洞雲寺」周辺の現在(2011年4月24日)
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寛文(1661)から正徳(1711)にかけて諸大名の参勤交代などで西国街道の交通量が増えてからこれに徴発される人馬数も次第に増え、宿駅に常備された人馬のみでは到底賄えられなくなった。これはいずこの諸国も同じ状況に陥っていた。そのため、「助郷(すけごう)」制度が設けられた。宿駅常備の人手や馬で足りなくなると助郷にお触れを出して応援を頼み、人馬の不足分は郡内の村落から徴発しょうという制度であった。 当時佐伯郡には八三ヶ村あり、二四ヶ村を除く五九ヶ村に人夫か人馬が割賦され、また除かれた二四ヶ村の内能実島一六ヶ村、草津、井口、海老塩浜、地御前、黒川、小方は浦方(漁村・海辺の称)に属するため水主役(かこやく)・・・海上交通の義務を負った。負担を免除された飯山・中道は山間僻地で人馬調達の負担に耐えがたく割賦されなかったと推測されるのである。人夫と馬の両方を出しているのは宿駅の廿日市・玖波両駅と倉重村(現 広島市佐伯区)・下平良村(現 廿日市市)・和田村(現 広島市佐伯区)のみであった。これら助郷人馬には、公定の御定め賃銭が支払われたが、低く抑えられていたので到底実費を賄うまでに至らず、その不足は郡・村の郡割・村割の「足銀(足し銀)」が使われた。助郷で割賦された人馬は村全体の責任で果たす義務があり、その賃銭の不足分についても郡村民全体の負担により賄われるべきものとさていた。この助郷役の負担は、村の財政と農民の生活を極度に圧迫する最大の原因となった。
幕府は各街道筋に宿駅を設けて、公用の旅行者や荷物を宿駅から宿駅へと送る伝馬制度を敷きこれに必要な人手や馬を常備することを各宿駅に義務付けた。さらにその補充として、宿駅周辺の村々に課役を負わせたのが助郷(すけごう)制度である。しかし、低廉な御定め賃銭のもとで廿日市宿駅の負担は一層増大し、天保十年(1839)四月に幕府は御定め賃銭の二割り増しを五年間許可するほど疲弊の度を深めていった。
幕末期になると多くの宿駅が破綻寸前に追い込まれていた。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国の通商使節ペリーが来航し長い鎖国が終焉を迎え、極限状態にあった宿駅制度は明治5年、新政府の手で廃止されたのである。
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