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★親藤(ちかふじ)
←永享5年―嘉吉(かきつ)3年4月
「厳島社神主家系図寫」(新出厳島文書161号)によれば、永享五年(1433)葵丑(きちゅう)三月廿一日丑尅、客人御前御造営、神主家掃部頭(かもんのかみ)親藤勤仕、云々、とみられ、安芸現地居住の可能性がある。
★教親(のりちか)
←文安元年7月―文明3年8月→
教親は毛利氏一族の長屋氏の出身で、前神主親藤の養子となって神主家を相続。幕府内部で細川氏と山名氏の対立から、安芸国においては、山名氏と結ぶ大内氏と神主家、細川氏と結ぶ武田氏と国人領主(毛利・吉川氏など)という二代勢力の対立が生まれ、康正三年(1457)二月保井田で合戦、三月己斐城攻防戦、四~五月佐東郡山本・鳴屋尾・十王堂など佐東・佐西境界で衝突した。応仁・文明の乱で西軍山名持豊方の主力である大内正弘に隋従した神主教親に背いて、東軍細川勝元に呼応し、赤間関で挙兵した正弘の叔父大内道頓(教幸)に加担する勢力「謀反人」が厳島社内部に形成されていた。教親は神主家内部の動揺と東軍方との関係も維持するため、神主の地位を幼い長松丸(教親の嫡男宗親と考えられる)に譲っている。
★宗親(むねちか)
←文明5年正月―明応2年3月
長享元年(1487)将軍足利義尚の近江六角氏征討へ参陣に神主家代々の嫡子の任官前の通称「四郎」の「厳島四郎」の名がみえる。
★興親(おきちか)
←永正5年7月―永正5年12月
興親は毛利氏一族の長屋氏の出身で神主家の養子となった教親の子である。兄宗親が本家長屋氏を相続したため、宗親のあと弟興親は神主を継いだ。永正五年(1508)二月将軍足利義稙(よしたね)・大内義興に奉じて厳島より乗船し海路上洛したが、十二月八日京都において病死。興親には後嗣がいなかったため、その跡目をめぐって神主家内部の争いが表面化した。
★興藤(おきふじ)
大永3年閏4月―大永4年10月
興親の死後、東方友田興藤と西方小方加賀守ら神領衆の分裂抗争が始まるが、大内義興は神主を置かず、神領を直接支配する。義興に従って上洛していた武田元繁は帰国後敵対し佐西郡に討ち入る。大永三年(1523)四月十一日、友田興藤は大内氏に反旗を翻し、桜尾城へ入城し自らを神主と称す。桜尾城の攻防の末、両者は興藤が神主を退き、興藤の兄の子藤太郎を神主とすることで講和する。
大永4年10月―享祿元年
兼藤(友田興藤の兄の子藤太郎)は病死のため、四年の在任。
興藤の弟四朗を掃部頭廣就として神主とした。
享祿元年(1528)十二月二十日大内義興は死去し、大内義隆が後を継ぐ。興藤、藤太郎、廣就と替わったが実権は興藤が握っていた。
★廣就(ひろなり)
享祿元年8月―天文10年4月
天文十年(1541)正月十二日、尼子氏に呼応し、興藤は再び大内氏に反旗を翻した。三月十八日、大内義隆は岩国から大野門山、二十三日、さらに七尾に陣を進め桜尾城を包囲した。四月五日夜半、興藤の神領衆羽仁・野坂・熊野氏らは興藤を見限り、一斉に城を退去。興藤一人城に火を放ち切腹。神主の廣就は栗栖氏に伴なわれて桜尾城を脱出し五日市城に入城。翌六日、大内方に.五日市城も包囲されたため、城主宍戸弥七郎は廣就を切腹させ大内方に降伏した。
こうして承久三年(1221)以来厳島藤原姓神主家は三百二十年余に及ぶ.神主職を世襲し、佐西郡(ささいぐん)を支配してきたが滅亡した。 |
厳島神社の神主職は承久の乱後、鎌倉幕府御家人藤原親実が神主に補任(ぶにん)され、以降神主職は藤原姓神主家というその子孫に継承される。「神主職根本之次第」野坂文書428号より詳細に、神主の動向を明らかにしてみたい。
★藤原親実(ちかざね)
承久3年→
承久三年(1221)神主就任時-、幕府御所奉行の職にあり、安芸現地に定住することはなく、現地には掃政所を配し、代官を派遣して社家政所の統括、神主職務を代行させた。しかし、祭祀・神社経営の実務は旧来の社家佐伯氏が担当した。建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度の厳島社の火災再建造営事業では七十歳を超え指揮を執ったが仁治二年(1241)の遷宮を迎えた。その後十年神主にとどまり、息子親光が後を継ぐ。
★親光(ちかみつ)
←建長7年11月→
親実同様現地に在住せず。「吾妻鑑」建長三年(1251)正月小一日壬戌の項にその名は散見される。また安芸右近大夫親継・安芸左近蔵人重親(建長三年(1251)正月小十一日壬申)、安芸大炊助(おおいのすけ)(正嘉二年(1258)三月小一日辛亥)ら安芸と称する名は神主親光一族とかや。
(廿日市町史通史編(1)神主家と社家)
★親定(ちかさだ)
←文永11年12月―永仁2年3月→
「吾妻鑑」正嘉二年(1258)正月大一日辛亥に安藝掃部大夫(かもんのたいふ)としてみえる。
★親範(ちかのり)
←永仁6年12月―乾元(けんげん)2年→
親範は老父親定の病気平癒を厳島明神に祈願し、効験があったので、みずから願主となり藤原為世や京の歌人達が名を連ねた社頭和歌一巻を奉納している。京都における交友関係に重きがおかれていた様子が浮かぶ。また鎌倉期は神主は定住せず、「預所」、「神主代」ともいう惣政所に、権限を現地で代行させていた。しかも社家・社領の支配に関する点は下文や下知状を発給し、神主の指揮命令系統等の確立・強化・整備がなされた。
★親顕(ちかあき)
←正和5年3月―建武3年正月
京都に居住していたようである。正応二年(1333)正月、六波羅から天王寺に下向し、楠正成らの倒幕勢力と戦。建武三年(1336)正月十六日の小幡合戦で討ち死にす。南北朝動乱による武家・荘園の争いは、厳島神社の従来の支配の根幹を揺るがすもので、新たな対応にせまられることになった。
★親直(ちかなお)
建武3年 ? ―至徳(しとく)2年7月→
神主親顕が討死にした京都攻防戦で敗れた足利尊氏は、海路九州に逃げて勢力回復を図り、東上途上、厳島神社に参詣して天下太平の所願成就を祈念し、造果保(ぞうかほ)を造営料所として寄進した。その後厳島社は足利将軍家の崇拝を受ける。
造果保寄進18年後の文和三年(1354)、将軍足利義詮(よしあきら)は小早川一族の小泉氏平に造果保を預け置いたため、両者による造果保を巡る争いは紆余曲折を経て長期化した。親直は貞治五(1366)・六年に大内弘世の安芸進出に呼応し、保内に城郭を構え実力で造果保を占拠すべく、応安元年(1368)から翌年合戦に及ぶ。 鎌倉御家人藤原親実の神主職から始まる神主家は神官として祭祀に直接関与することはなかったが、南北朝動乱により、社領を武力と幕府への訴訟という手段で維持しようとする親直は、国人領主(在地領主)への脱皮を図った。 ★親詮(ちかあきら)
←至徳4年3月―応永4年3月→
親詮は応永四年(1397)三月、幕命によって少弐氏征伐に出陣した大内軍に従い、豊前小倉で陣没している。
★親弘(ちかひろ) (親胤ちかたね・親頼ちかより)
←応永4年7月―応永18年12月→
先の野坂文書428号「神主職根本之次第」では、親弘とあるが、廿日市町史通史編(上)では親胤(ちかたね)としている。
応永六年(1399)の応永の乱で、神主親胤は大内義弘に従い堺に籠城し南口において幕府軍と戦い、義弘戦死後、弟弘茂らと降伏。親胤はほどなく罪を許され神主職に復して親頼(ちかより)と改名している。系図に親詮の次に親弘(親頼)をあげ、親胤を上げない理由といわれる。
応永の乱後、幕府は備後・石見・安芸の守護職を山名氏とし、大内勢力の一掃をは図るも、吉川・小早川氏ほかの安芸国人三十三名は応永十一年(1404)九月、五ケ条の一揆契状を結び新守護山名氏の国人圧迫政策に対抗。神主親胤は「厳島 安芸守親頼」の名で28番目に連署し一揆に加勢した。
★親景(ちかかげ)
←永享3年8月→
野坂文書 428厳島社宮居年記并神主職次第では神主親景とあるがなぜか不詳で謎である。
親藤(ちかふじ)につづく |
野坂文書 428厳島社宮居年記并神主職次第によれば
(端書書)
「此分都而書付候、不出番外第三号甲と同文、殊に親直洩タリ」
厳島大明神始御宮居之御事
一 推古天皇御宇瑞正五年葵丑(きちゅう)、至于今八百六十三年也、
一 高倉院當社御参詣事治承二年戊戌(ぼじゅつ)、至于今二百七
十九年也、
一 順徳天皇御宇貞応二年葵十二月二日庚午(こうご)申時社頭
炎焼、已後八箇年間御殿并御玉殿依有御造営、寛喜二年庚寅
(こういん)九月十六日ヨリ営にて、同三年辛夘(しんぼう辛卯カ)二月二日己未(きび)有御遷宮、十一年之間悉
(ことごとく)造云々、
一 神主職根本之次第
斎院次官
親能(ちかよし) 左馬頭源義朝之養子 建久五年甲寅
(こういん)初入武家
(藤原姓)
親実(ちかざね) 周防前司 承久三年辛巳(しんし)神主職御給也
親光(ちかみつ) 安芸守 八条院蔵人
親定(ちかさだ) 下野守 一級内昇殿
親範(ちかのり) 兵庫守(頭)周防守 金剛寺殿
親顕(ちかあき) 蔵人大夫 下野守 小幡合戦討死 建武三
丙子(へいし)正月十六日
(追筆)
親直(ちかなお) 掃部頭 下野守 龍翔寺殿
親詮(ちかあきら) 左近大夫将監 掃部頭 親成寺殿
於豊前国小倉逝去
親弘(ちかひろ) 左近大夫将監 安芸守
親景(ちかかげ) 安芸守
親藤(ちかふじ) 掃部頭 下野守 宝寿寺殿
教親(のりちか) 掃部頭 下野守 自斎院次官親実當代ハ子今
掃部頭神主職十一代承久三年丙子(へいし)
至當年二百卅
宗親(むねちか) 掃部頭 薬師院殿
興親(おきちか) 又四朗殿 陽光寺殿 従此代神主職断絶然
所自興藤代神主建立
(友田姓)
兼藤(かねふじ) 藤太郎殿 (友田興藤の兄の子)
興藤(おきふじ) 兵部少輔 上野介(友田興親の従兄弟にあたる)
廣就(ひろなり) 掃部頭 (国人領主としては最後の代となった
厳島神主。友田興藤の弟)
元来、厳島神主家は安芸国造であった佐伯氏が世襲していたが、鎌倉期の承久の乱(1221)後、京方に通じていた佐伯氏は京方の敗北に伴い、「神主には佐伯鞍職子孫をもって任じ異性の他人を神主となすべからず」という厳島神主職規範に反し、幕府御所奉行・周防国守護等の要職を歴任していた幕府御家人・藤原親実が神主職に補任された。以来、他の国人領主らの神領押領を防御しつつ、安芸国西部を中心とした社領(厳島神領)とその在地支配を担う家臣団(厳島神領衆)を支配する有力な国人領主でもあった。
天文十年(1541)大内氏の攻撃を受け、友田興藤が桜尾城において火を放ち自害、五日市城に逃れた廣就も自害したため、厳島藤原姓神主家は滅亡した。その後の厳島神主家は、佐伯氏が世襲し、現在は野坂氏に受け継がれているのである。
尚、参考にした「神主職根本之次第」(野坂文書428号)とは別に「厳島社神主家系図寫」(新出厳島文書161号)もあるが、若干その記述に違いが認められる。 |
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