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【2024/05/16 01:54 】 |
仮説 「内侍岩伝説」の疑問 -音戸の瀬戸の通行と関連-
「内侍岩伝説」は、昇進願望が満たされない徳大寺左大将実定(とくだいじさだいしょうさねさだ)が、治承三年(1179)三月、成就を期し厳島神社へ参詣。17 歳の有子内侍(ありこないし)を寵愛。実定が都へ帰る時、有子内侍は、実定の乗った船を追いかけ、この内侍岩に立っていつまでも別れを惜しむ。実定への想いはますます募り、摂津国住吉辺りまで行き、成就ならず、念仏を唱えながら、入水(じゅすい)したという悲恋物語です。
(参考文献:藝藩通志巻16 安藝國嚴島4 古事 藤原實定) 
(げいはんつうしまきの16 あきのくにいつくしま4 こじ ふじわらさねさだ)

「音戸の瀬戸」は1165 年、もしくは仁安二年(1167)、「内侍岩伝説」は1179 年の成立です。
徳大寺左大将実定の船は、帰京時、当然、音戸の瀬戸を航行可能であったのに、なぜ、西進したのか。その謎は、準構造船のため、瀬戸内海往来の安全が大優先されたためであったと考えられます。
複雑で速い潮流、しかも危険な狭小の海峡の音戸の瀬戸を遭難覚悟で通行したいと思う公卿(くぎょう)はいません。船頭も身分の高い人物を海に沈めたくなかったということで、危険回避の安全航行のため、京から宮島には、①の航路を西から来て、西へ帰ったと考えれば、疑問は払拭するのです。

<画像をクリックで拡大>





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【2012/04/18 15:24 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
430年前のヨーロッパで知られていた「Itoqulchima」
1595年(文禄4年)に現ベルギーのアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン領南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」拡大の中央部(赤丸印)には、厳島がItoqulchimaとして記されています。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえます。



下図画面クリックすると拡大

愛知学院大学貴重資料デジタルギャラリー 「テイセラ日本図」
http://kicho.lib.agu.ac.jp/4DACTION/Web_Meisai?kubun=8&seq=3




【2012/04/18 14:24 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
宮島に古くから伝わる「幸紙(さいわいがみ)」
おそらく戦前からの伝承であった風習を最近思い出した。
子供のころ、父親が年末になると、かまど、井戸、道具置
き場の上に祀ってある神棚に貼っていた墨書された紙である。
調べてみると、これは、江戸時代の中頃、宮島では大火があ
り、そのことを忘れないようにということと、厄除けの意味
をこめて作られ、各家の神棚や玄関に貼られるようになった
「幸紙」と呼ばれるようである。

模様は、弘法大師が灯した弥山霊火堂の消えずの火や、宝珠
に見立てた三重の円と、燃え上がる炎を墨で描かれている。





【2012/04/09 09:33 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
2011年12月目次
(タイトルクリックでリンク先へ)

1    2011/12/20    [経の尾(清盛塚)]


【2011/12/20 22:25 】 | 2011年12月目次 | 有り難いご意見(0)
経の尾(清盛塚)
2011年8月1日オープンした 「みやじマリン」(宮島水族館) のそばの小高い丘が経の尾(きょうのお)と呼ばれます。
文政8年(1825)に成る「藝藩通志巻16名勝古蹟」に経の尾について 「大元へゆく路の岡にあり、傳へ云、平相国(平清盛)が一石一字(いっせきいちじ)の法華経を、こゝに埋めしと、今も一石搭あり、其処より経字石を出すことあり、此地の草樹は、釆樵(きこり)すれば祟(たた)りありとて取らず」とあります。
経塚は、貴族たちが法華経を石に書写(石経)し、土に埋めれば浄土に行けるという浄土教の信仰から平安中期から近世にかけて行われたものです。
写真の積石、経塚(清盛塚)などは後世のものといわれています。昭和19年(1944)開墾のため発掘時、素焼の甕{かめ}や宋期の白磁製盒子(ごうし)、梅花双雀鏡などが発見され、厳島神社に非公開で収蔵されています。気になるのが白磁製盒子(ごうし)。です。清盛の日宋貿易で渡海してきた品であれば平家ゆかりの遺産になるのですが。
経の尾へ行くためには、急斜面の階段を登らなければいけないので注意が必要です。現在立入禁止の札が掲示されています。



【2011/12/20 13:48 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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