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【2024/04/29 15:22 】 |
日本三景由来の源典
『松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳興、丹後天橋立、安藝嚴島為三処奇観』 (林春斎の「日本国事跡考(こくじせきこう)」陸奥国(むつのくに))

[読み下し文]
「松島、此の島の外に小島若干(そこはく)有り。殆んど盆池(ぼんち)月波(つきは)の景(かげ)の如し。境致の佳(か)なること、丹後の天橋立・安藝嚴島と三處(さんしょ)の奇(き)觀(がん)と為(な)す」  (参考 宮島町史・資料編3頁)
京都大学附属図書館所蔵  一般貴重書 『日本国事跡考』 [47/80頁]
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i191/image/01/i191s0047.html

尚平成18年7月、天橋立、松島、宮島の「日本三景観光連絡協議会」は林春斎の誕生日7月21日を『日本三景の日』と制定している。
 
<画像クリックで拡大>


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【2012/04/21 10:10 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
改元と称元
治世途中の改元だけを「改元」とし、帝王の退位により新帝王の即位による元年は「称元(しょうげん)」と呼んで区別することがある。

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である。
(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日)― 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。
正長2年9月5日後花園天皇は、代始(だいはじ)めにより永享(えいきょう)に改元以降、嘉吉(かきつ)・文安(ぶんあん)・宝徳(ほうとく)・享徳(きょうとく)・康正(こうしょう)・長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)と7回も改元する。

改元の種類
1.代始改元(だいはじめかいげん):
天皇の代替わりによる。一般には即位や践祚(せんそ・皇位継承)の翌年に改元される。

2.祥瑞改元(しょうずいかいげん):
吉事・吉祥を理由とする。飛鳥・奈良時代に多い。

3.災異改元(さいいかいげん):
天変地異・疫病・戦災などの凶事に際してその影響を断ち切るために行われる。

4.革年改元(かくねんかいげん):
讖緯説(しんいせつ・中国で、前漢から後漢にかけて流行した未来予言説)による革令
(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年)に改元する。

5.その他
室町時代以後、将軍の代始に行われた改元など。




【2012/04/20 11:14 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
一世一元の制
一世一元の制(いっせいいちげんのせい)とは,元号を君主(天皇、皇帝、国王)の在位中には変えない制度。

明治政府は、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、一世一元の詔で天皇一代につき一元号とする一世一元の制を定めた。日本の場合、明朝や清朝とは異なり、君主が交代した日にすぐ新元号を適用する「即日改元」が実施された。

1979年(昭和54年)6月6日には元号法が成立した。昭和天皇崩御を受けて、「平成」の元号が定められ、一世一元が継続されている。

「参考Web: 一世一元の制(いっせいいちげんのせい)」


【2012/04/20 10:10 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
厳島合戦の年号について
安芸の国の毛利元就と陶晴賢の「厳島合戦」は弘治元年10月1日と弘治元年と錯誤されてきましたが、弘治に改元されたのは天文24年10月23日です。

弘治改元理由:兵革
改元日:天文二十四年十月二十三日
出典:「北斉書」:「祇承二宝命一、志弘二治体一」/選者:菅原長雅


弘治元年10月1日の時点では、改元前であり、厳島合戦は、正しくは天文24年10月1日と天文24年にすべき。






【2012/04/19 16:27 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
仮説 「内侍岩伝説」の疑問 -音戸の瀬戸の通行と関連-
「内侍岩伝説」は、昇進願望が満たされない徳大寺左大将実定(とくだいじさだいしょうさねさだ)が、治承三年(1179)三月、成就を期し厳島神社へ参詣。17 歳の有子内侍(ありこないし)を寵愛。実定が都へ帰る時、有子内侍は、実定の乗った船を追いかけ、この内侍岩に立っていつまでも別れを惜しむ。実定への想いはますます募り、摂津国住吉辺りまで行き、成就ならず、念仏を唱えながら、入水(じゅすい)したという悲恋物語です。
(参考文献:藝藩通志巻16 安藝國嚴島4 古事 藤原實定) 
(げいはんつうしまきの16 あきのくにいつくしま4 こじ ふじわらさねさだ)

「音戸の瀬戸」は1165 年、もしくは仁安二年(1167)、「内侍岩伝説」は1179 年の成立です。
徳大寺左大将実定の船は、帰京時、当然、音戸の瀬戸を航行可能であったのに、なぜ、西進したのか。その謎は、準構造船のため、瀬戸内海往来の安全が大優先されたためであったと考えられます。
複雑で速い潮流、しかも危険な狭小の海峡の音戸の瀬戸を遭難覚悟で通行したいと思う公卿(くぎょう)はいません。船頭も身分の高い人物を海に沈めたくなかったということで、危険回避の安全航行のため、京から宮島には、①の航路を西から来て、西へ帰ったと考えれば、疑問は払拭するのです。

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【2012/04/18 15:24 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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