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【2024/05/16 06:48 】 |
430年前のヨーロッパで知られていた「Itoqulchima」
1595年(文禄4年)に現ベルギーのアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン領南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」拡大の中央部(赤丸印)には、厳島がItoqulchimaとして記されています。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえます。



下図画面クリックすると拡大

愛知学院大学貴重資料デジタルギャラリー 「テイセラ日本図」
http://kicho.lib.agu.ac.jp/4DACTION/Web_Meisai?kubun=8&seq=3




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【2012/04/18 14:24 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
宮島に古くから伝わる「幸紙(さいわいがみ)」
おそらく戦前からの伝承であった風習を最近思い出した。
子供のころ、父親が年末になると、かまど、井戸、道具置
き場の上に祀ってある神棚に貼っていた墨書された紙である。
調べてみると、これは、江戸時代の中頃、宮島では大火があ
り、そのことを忘れないようにということと、厄除けの意味
をこめて作られ、各家の神棚や玄関に貼られるようになった
「幸紙」と呼ばれるようである。

模様は、弘法大師が灯した弥山霊火堂の消えずの火や、宝珠
に見立てた三重の円と、燃え上がる炎を墨で描かれている。





【2012/04/09 09:33 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
経の尾(清盛塚)
2011年8月1日オープンした 「みやじマリン」(宮島水族館) のそばの小高い丘が経の尾(きょうのお)と呼ばれます。
文政8年(1825)に成る「藝藩通志巻16名勝古蹟」に経の尾について 「大元へゆく路の岡にあり、傳へ云、平相国(平清盛)が一石一字(いっせきいちじ)の法華経を、こゝに埋めしと、今も一石搭あり、其処より経字石を出すことあり、此地の草樹は、釆樵(きこり)すれば祟(たた)りありとて取らず」とあります。
経塚は、貴族たちが法華経を石に書写(石経)し、土に埋めれば浄土に行けるという浄土教の信仰から平安中期から近世にかけて行われたものです。
写真の積石、経塚(清盛塚)などは後世のものといわれています。昭和19年(1944)開墾のため発掘時、素焼の甕{かめ}や宋期の白磁製盒子(ごうし)、梅花双雀鏡などが発見され、厳島神社に非公開で収蔵されています。気になるのが白磁製盒子(ごうし)。です。清盛の日宋貿易で渡海してきた品であれば平家ゆかりの遺産になるのですが。
経の尾へ行くためには、急斜面の階段を登らなければいけないので注意が必要です。現在立入禁止の札が掲示されています。



【2011/12/20 13:48 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
厳島神社歴代神主の在任年代と動向(2)
 ★親藤(ちかふじ)
←永享5年―嘉吉(かきつ)3年4月
「厳島社神主家系図寫」(新出厳島文書161号)によれば、永享五年(1433)葵丑(きちゅう)三月廿一日丑尅、客人御前御造営、神主家掃部頭(かもんのかみ)親藤勤仕、云々、とみられ、安芸現地居住の可能性がある。

 ★教親(のりちか)
←文安元年7月―文明3年8月→
教親は毛利氏一族の長屋氏の出身で、前神主親藤の養子となって神主家を相続。幕府内部で細川氏と山名氏の対立から、安芸国においては、山名氏と結ぶ大内氏と神主家、細川氏と結ぶ武田氏と国人領主(毛利・吉川氏など)という二代勢力の対立が生まれ、康正三年(1457)二月保井田で合戦、三月己斐城攻防戦、四~五月佐東郡山本・鳴屋尾・十王堂など佐東・佐西境界で衝突した。応仁・文明の乱で西軍山名持豊方の主力である大内正弘に隋従した神主教親に背いて、東軍細川勝元に呼応し、赤間関で挙兵した正弘の叔父大内道頓(教幸)に加担する勢力「謀反人」が厳島社内部に形成されていた。教親は神主家内部の動揺と東軍方との関係も維持するため、神主の地位を幼い長松丸(教親の嫡男宗親と考えられる)に譲っている。
 

 ★宗親(むねちか)
←文明5年正月―明応2年3月
長享元年(1487)将軍足利義尚の近江六角氏征討へ参陣に神主家代々の嫡子の任官前の通称「四郎」の「厳島四郎」の名がみえる。
 

 ★興親(おきちか)
←永正5年7月―永正5年12月
興親は毛利氏一族の長屋氏の出身で神主家の養子となった教親の子である。兄宗親が本家長屋氏を相続したため、宗親のあと弟興親は神主を継いだ。永正五年(1508)二月将軍足利義稙(よしたね)・大内義興に奉じて厳島より乗船し海路上洛したが、十二月八日京都において病死。興親には後嗣がいなかったため、その跡目をめぐって神主家内部の争いが表面化した。
 

 ★興藤(おきふじ)
大永3年閏4月―大永4年10月
興親の死後、東方友田興藤と西方小方加賀守ら神領衆の分裂抗争が始まるが、大内義興は神主を置かず、神領を直接支配する。義興に従って上洛していた武田元繁は帰国後敵対し佐西郡に討ち入る。大永三年(1523)四月十一日、友田興藤は大内氏に反旗を翻し、桜尾城へ入城し自らを神主と称す。桜尾城の攻防の末、両者は興藤が神主を退き、興藤の兄の子藤太郎を神主とすることで講和する。
 5a0af1e0.jpeg








 友田興藤の墓
(廿日市市佐方 洞雲寺内)


 ★兼藤(かねふじ)
 大永4年10月―享祿元年
兼藤(友田興藤の兄の子藤太郎)は病死のため、四年の在任。
興藤の弟四朗を掃部頭廣就として神主とした。
享祿元年(1528)十二月二十日大内義興は死去し、大内義隆が後を継ぐ。興藤、藤太郎、廣就と替わったが実権は興藤が握っていた。 


 ★廣就(ひろなり)
享祿元年8月―天文10年4月
天文十年(1541)正月十二日、尼子氏に呼応し、興藤は再び大内氏に反旗を翻した。三月十八日、大内義隆は岩国から大野門山、二十三日、さらに七尾に陣を進め桜尾城を包囲した。四月五日夜半、興藤の神領衆羽仁・野坂・熊野氏らは興藤を見限り、一斉に城を退去。興藤一人城に火を放ち切腹。神主の廣就は栗栖氏に伴なわれて桜尾城を脱出し五日市城に入城。翌六日、大内方に.五日市城も包囲されたため、城主宍戸弥七郎は廣就を切腹させ大内方に降伏した。
 

こうして承久三年(1221)以来厳島藤原姓神主家は三百二十年余に及ぶ.神主職を世襲し、佐西郡(ささいぐん)を支配してきたが滅亡した。


【2011/05/03 21:38 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
厳島神社歴代神主の在任年代と動向(1)
厳島神社の神主職は承久の乱後、鎌倉幕府御家人藤原親実が神主に補任(ぶにん)され、以降神主職は藤原姓神主家というその子孫に継承される。「神主職根本之次第」野坂文書428号より詳細に、神主の動向を明らかにしてみたい。


 ★藤原親実(ちかざね)
承久3年→ 
承久三年(1221)神主就任時-、幕府御所奉行の職にあり、安芸現地に定住することはなく、現地には掃政所を配し、代官を派遣して社家政所の統括、神主職務を代行させた。しかし、祭祀・神社経営の実務は旧来の社家佐伯氏が担当した。建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度の厳島社の火災再建造営事業では七十歳を超え指揮を執ったが仁治二年(1241)の遷宮を迎えた。その後十年神主にとどまり、息子親光が後を継ぐ。


 ★親光(ちかみつ)
←建長7年11月→
親実同様現地に在住せず。「吾妻鑑」建長三年(1251)正月小一日壬戌の項にその名は散見される。また安芸右近大夫親継・安芸左近蔵人重親(建長三年(1251)正月小十一日壬申)、安芸大炊助(おおいのすけ)(正嘉二年(1258)三月小一日辛亥)ら安芸と称する名は神主親光一族とかや。
(廿日市町史通史編(1)神主家と社家)


 ★親定(ちかさだ)
←文永11年12月―永仁2年3月→
「吾妻鑑」正嘉二年(1258)正月大一日辛亥に安藝掃部大夫(かもんのたいふ)としてみえる。


 ★親範(ちかのり)
←永仁6年12月―乾元(けんげん)2年→
親範は老父親定の病気平癒を厳島明神に祈願し、効験があったので、みずから願主となり藤原為世や京の歌人達が名を連ねた社頭和歌一巻を奉納している。京都における交友関係に重きがおかれていた様子が浮かぶ。また鎌倉期は神主は定住せず、「預所」、「神主代」ともいう惣政所に、権限を現地で代行させていた。しかも社家・社領の支配に関する点は下文や下知状を発給し、神主の指揮命令系統等の確立・強化・整備がなされた。


 ★親顕(ちかあき)
←正和5年3月―建武3年正月
京都に居住していたようである。正応二年(1333)正月、六波羅から天王寺に下向し、楠正成らの倒幕勢力と戦。建武三年(1336)正月十六日の小幡合戦で討ち死にす。南北朝動乱による武家・荘園の争いは、厳島神社の従来の支配の根幹を揺るがすもので、新たな対応にせまられることになった。


 ★親直(ちかなお)
建武3年 ? ―至徳(しとく)2年7月→
神主親顕が討死にした京都攻防戦で敗れた足利尊氏は、海路九州に逃げて勢力回復を図り、東上途上、厳島神社に参詣して天下太平の所願成就を祈念し、造果保(ぞうかほ)を造営料所として寄進した。その後厳島社は足利将軍家の崇拝を受ける。

 造果保寄進18年後の文和三年(1354)、将軍足利義詮(よしあきら)は小早川一族の小泉氏平に造果保を預け置いたため、両者による造果保を巡る争いは紆余曲折を経て長期化した。親直は貞治五(1366)・六年に大内弘世の安芸進出に呼応し、保内に城郭を構え実力で造果保を占拠すべく、応安元年(1368)から翌年合戦に及ぶ。

 鎌倉御家人藤原親実の神主職から始まる神主家は神官として祭祀に直接関与することはなかったが、南北朝動乱により、社領を武力と幕府への訴訟という手段で維持しようとする親直は、国人領主(在地領主)への脱皮を図った。


  ★親詮(ちかあきら)
←至徳4年3月―応永4年3月→
親詮は応永四年(1397)三月、幕命によって少弐氏征伐に出陣した大内軍に従い、豊前小倉で陣没している。


 ★親弘(ちかひろ) (親胤ちかたね・親頼ちかより)
←応永4年7月―応永18年12月→
先の野坂文書428号「神主職根本之次第」では、親弘とあるが、廿日市町史通史編(上)では親胤(ちかたね)としている。
 
 応永六年(1399)の応永の乱で、神主親胤は大内義弘に従い堺に籠城し南口において幕府軍と戦い、義弘戦死後、弟弘茂らと降伏。親胤はほどなく罪を許され神主職に復して親頼(ちかより)と改名している。系図に親詮の次に親弘(親頼)をあげ、親胤を上げない理由といわれる。
 
 応永の乱後、幕府は備後・石見・安芸の守護職を山名氏とし、大内勢力の一掃をは図るも、吉川・小早川氏ほかの安芸国人三十三名は応永十一年(1404)九月、五ケ条の一揆契状を結び新守護山名氏の国人圧迫政策に対抗。神主親胤は「厳島 安芸守親頼」の名で28番目に連署し一揆に加勢した。

 
 ★親景(ちかかげ)
←永享3年8月→
野坂文書 428厳島社宮居年記并神主職次第では神主親景とあるがなぜか不詳で謎である。

親藤(ちかふじ)につづく



【2011/05/03 21:36 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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