寛政十一年(1799)三月十七日東蝦夷地の経営に当たる富山元十郎、高橋次太夫、松田仁三郎ら幕吏の第一陣が江戸品川からアッケシまで海上試乗として御用船「政徳丸」に上乗り、急派された。
しかし、気象条件が悪く、苫小牧西北の支笏湖の樽前岳を見て北上し襟裳岬を廻って、強風と霧で三ヶ月を要して六月二十九日にアッケシに着という期待はずれの3ヶ月を要す成果のない航海だったのです。
実は「休明光記巻1」文化四年(1807)刊、蝦夷地御用掛だった羽太正養著によればこの「政徳丸」に堀田仁助が乗船としていますがこれは明らかに錯誤があります。
昭和7年1月札幌の古書店・尚古堂書店発行「蝦夷往来第9号」所収『堀田仁助の蝦夷地海路測定事蹟 新資料「蝦夷地開発記」に就て 高倉新一郎』により、北海道大学付属図書館 北方資料デ―タベース 北方関係史料総合目録「蝦夷地開発記」鈴木周助をみると
三月十七日江戸出帆 御舩政徳丸上乗
富山元十郎、高橋次太夫、松田仁三郎ら幕吏
六月廿七日江戸出帆 御舩神風丸上乗天文方
渋川主水手傳 天文御用 堀田仁助
西丸小普請方書役粂右衛門悴 河村五郎八
仁助門人 浪人 深津小忠太
見習 同 木村清蔵
同 同 鈴木周助
という記録があります。仁助の見習である鈴木周助の手になるもので写本です。蝦夷地御用掛という当事者だったエリート官僚の羽太正養の単純な錯誤とは考えらません。
「政徳丸」には幕吏が乗り組み、天文御用は一人も乗っていなかったのです。
(3につづく)
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