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【2025/02/02 22:04 】 |
堀田仁助(1)
堀田仁助(ほったにすけ 1745~1829)は、藝州廿日市津和野藩御船屋敷に出生し、のち、天明2年(1782)35歳で幕府に召しだされ寛政の改暦に関与できなかった渋川正清(主水もんど)を補佐する天文方となる。
天明二壬寅年 御参勤御供被 仰付罷越 (中略) 出立前六月十一日 公儀暦作御用被 仰付於江戸 公儀御役所罷出相勤申
寛政十一年(1799)三月十三日付蝦夷地測定の幕命を受け、同年六月廿七日、相州浦賀で新造された朱塗唐風の「神風丸」一四六〇石積に乗り込み江戸出帆,船上から天文観測により方位を定め、江戸から厚岸間の東蝦夷地への海上直通航路を開くことに成功したのです。(2につづく)
 Image4.jpg
(左:仁助船上測量図、右:忠敬陸地測量図)




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【2011/04/18 09:00 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
河井継之助の「塵壺」(5)
f857aff2.jpeg
【註3】富籤(とみくじ)

宮島の「富籤」は「市立」とともに島の重要な経済の基盤のひとつであった。宮島の富籤(とみくじ)は西連町に抽選会場となった建物があった。宮島の富籤は宮島の特産「大束(だいそく)」の入札形式で年六回興行され、大束支配所と呼ばれていた。大束とは、日常使う燃料となる薪(まき)のことで島内の山林から伐り出していた。富札は瀬戸内沿岸全域に売り捌(さば)かれ、当り札には「大束**束」と記され、その収益は運上金として広島藩が収納していた。藩に収納するのに、なぜか富籤は建前上は非合法ですが、入札の形を取ったので許されたようです。

宮島の富籤についての参考文献
宮島歌舞伎年代記 蒲田太郎・純一郎 国書刊行会 昭和50年」



【2011/04/17 19:57 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
河井継之助の「塵壺」(4)
【註2】馬鹿らしき目にあった
九月二十四日 朝 西条四日市を発ち、広島に午後四時頃着く、城内を見物し、城市とも広大で賑やかであるが、城の外郭は手入れが行き届いておらずあまりきれいではない。山野、島々多く広大な領地であるが富国とはいえない。余りいい印象を持たない広島の船宿を夜四ッ(十時)時分、船宿より宮島へ渡るため、船に乗ったが九ッ(午前零時)過ぎ迄満潮にならないので船は出ず、ようやく船出したら船底が砂につかえて動かず、しまいには小船を雇い草津へ着く始末。.着いた頃はすでに夜が明け、寒いし、寝られなくて、今宵は馬鹿らしき目にあった。広島の川は全体に浅く、満ち潮にならないと海に出られないのが 原因だった。そのため草津に着いたのが夜明けになり、結局、船中泊になったのである。  つづく




【2011/04/17 19:53 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
河井継之助の「塵壺」(3)
【註1】草津(くさつ)
広島市西区草津のことで草津城という山城があった。創建は不詳。戦国時代、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏が居城したが、その後安芸守護家たる武田氏、ついで大内氏・陶氏の勢力圏に入った。厳島合戦の前年、陶晴賢と断絶した毛利元就は、天文二十三年(1554)五月十二日、挙兵したその日に吉田郡山城への攻略線上に当る陶方の城攻略のため、二千余騎を従え、佐東郡に兵を進め、大内方の金山城城番栗田肥後入道らを説得し、城を明渡させ次に己斐城、草津城(城番 羽仁氏)、石内、五日市と大内方の兵を打ち破り、廿日市へ進み、洞雲寺に入り、桜尾城に立て篭もる江良氏ほかに城を明渡させ、また厳島を守備していた陶方の深町を島から追い出し、島を占拠したのである。毛利氏は挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領するという快挙をあげた。こうして広島から廿日市に至る沿岸部を抑えた元就は、桜尾城に桂元澄、草津城に水軍の将である重臣児玉就方仁保島城に香川光景を配し、来るべき陶晴賢との決戦に備え、防備を固めた。児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり、草津の町も大いに繁栄した。このように広島湾沿岸を中心としたエリアは、厳島神社の経済的権益の争奪合戦のため、武田・大内・毛利・陶氏などの奪い合いの時代が続いた。その後毛利氏は、西軍として負け戦となった慶長五年(1600)関ヶ原の戦い後、芸備から防長へ移封となった。
(参考Web: 津城Wikipedia )   つづく




 
【2011/04/17 19:49 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
河井継之助の「塵壺」(2)
62d36fbb.jpeg
早朝広島から草津1に着き、草津で別船に移り、まもなく、草津から船をうかべ厳島へ向かう。天気は良い。順調な船足で厳島に着いた。
直に厳島の方に追い風になったので、程なく朝八時頃 厳島へ着く。楽しかったこと、昨夜の不快な馬鹿らしき目にあった(2ことを吹き飛ばすほど、順調な船足で厳島に着いたことがことのほか面白い。宮島に富籤(とみくじ)(3)があり、年二(二は、にの数字の二で「に」の意)六回行われる。今回は済んでいたが当てた者は追々一定の日に買い求めると見えて、同船客に・さん・よにんおり、富札を見た。

宮島へ上陸して朝飯を食べに宿に入ったら、富籤の当選者の名前が張ってあった。富札一枚が二朱ばかりで買え、同宿者は六, 七枚持っており、一枚当ると、二両・三両・五両・百両余りになるが、その話詳しく聞かせたいが略す。島はこの富籤で成り立っていると云う。(継之助は博打等が嫌いなので)博打染みた経済で成り立っている事が面白くないのである。 今晩は面倒になる故筆を止める。(筆を止める前に宮島の生活・風俗・経済基盤等について追求してから「宮島ハ是ニて立と云し也」と云って欲しかったのであるが。
 
塵壷―河井継之助日記 【註】につづく



【2011/04/17 19:36 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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