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【2025/02/02 14:45 】 |
西国街道と宿駅(2)
広島藩の宿駅は、御茶屋(藩主の別荘)が設けられた駅と、庄屋らの居宅や町屋を本陣・脇本陣として宿泊する駅とに分けられる。当宿は寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察に際し御茶屋が設けられたが寛文年間以前に廃しされたようである。寛政七年の「津和野亀井記」によれば、廿日市本陣役は鳥屋市右衛門が勤めていた。その後廿日市本陣役は大庄屋や元禄八年(1695)に宿送り役(幕府の書状や荷物を扱うことを「天下送り」、藩のものを扱うことを「宿送り」と呼ぶ)に任ぜられた山田次右衛門が代々勤めている。幕府諸役人や諸大名の宿泊には、本陣以外にも脇本陣として有力な商人の民家、蓮教寺などの寺院があてられ、その従者や人足の宿舎には一般の民家もあてられた。文政二年(1819)ごろの廿日市には家数六六五軒で、内、西国街道に面した表町屋が三三三軒、その内一二〇軒が「御大名様御下宿二相成分」、一五〇軒が「御同様御雇方宿二相成分」六一軒が「右御用二付罷出候村役人其外人夫共宿二相成候分」 (みぎごようにつきまかりだしそうろうむらやくにんそのほかにんふともやどにあいなりそうろうぶん) となっていた。表町屋で不足の場合は裏通りの民家もあてられた。公定旅籠料は低く押さえられていたため、利益どころか赤字となり、それも宿駅が負担することになっていた。
廿日市宿の年間旅宿の利用回数について
天保六年(1835) 二十五回
天保十年(1839) 二十一回
昼食所としての利用も二十回
旅宿・昼食合わせて四十五回、四十一回(45÷12ヶ月=3.75/月、 41÷12ヶ月=3.4/月)
月に平均三~四回利用されていた。
月に一回大規模な公用旅行者を迎え低い公定賃銀で勤めなければならないため、公用に差し支えなければ民衆の利用が許され、その場合は当事者間で取り決める相対賃銭(あいたいちんせん)故、相当儲かったようである。

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【2011/04/24 14:15 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
西国街道と宿駅 (1)
元和五年(1619)に芸備両国に入部した浅野氏は、福島正則の交通政策を継承した。 寛永八年(1631)二月朔日 広島藩領内に於ける宿駅間の駄賃を定めた(駄賃定めの初見)。 それによると、馬一匹につき荷物米六斗、人が乗るときはほかに米二斗まで積載でき、駄賃は 一里につき銀三分の割合で定められていた。 高札にて周知徹底が図られ、廿日市は西条四日市と同種のものが建てられた。
広島藩の交通網が画期的に整備されることになったのは、寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察であった。藩は御茶屋作事・道橋・一里塚各奉行を任命し、領内十五箇所に三軒ずつの 御茶屋を設け、道路幅を西国街道は二間半(約四.五メートル)、石見・出雲路は七尺(約二. 三メートル)、村伝いの小道は三尺(約一メートル)に定め、一里三六丁の制が決められ、この 時、一里塚が設置されたのである。廿日市の御茶屋作事奉行には林権大夫が任命された。
翌寛永十一年(1634)にも、巡見使の通行があったので、廿日市から井口にかけての西国街道は、 満潮時になると通行が困難であったため、藩は米田十兵衛・河原藤兵衛を奉行に任命して 道普請を行わせている。
このように近世の交通の制度・施設は、寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察を機に、さらに寛永十二年(1635)から制度化された「参勤交代」によって整備・確立されていった。
西国街道にはその要地に宿駅が設けられた。宿駅は、幕府諸役人や諸大名・公家などの 公用の通行に際し、人馬の継ぎ立てや旅宿・飛脚などの用を果たした。 参勤交代の大名や幕府諸役人の宿泊にあてる本陣や脇本陣を中心に、その従者や一般 旅客の宿泊にあてられる町屋が建ち並び、街道沿いに駄賃定めの高札が建てられていた。
1e038ae1.jpeg
○高札場(こうさつば)
東材木町の北側の建物の中にある。
「廿日市上下駕籠定の事」
「玖波江四里本馬百八十文半馬百五十二文軽尻百廿四文人足六十文広島江三里本馬百廿四文 半馬百四文軽尻七十九文人足六十文」と書かかれており、廿日市が宿場町であることがわかる。


【2011/04/24 14:13 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
高欄の擬宝珠(こうらんのぎぼし)棚守房顕銘刻印
                             e8629ac9.jpeg                      
厳島神社本社祓殿前の平舞台に朱塗りの高欄(欄干)を設けた高舞台に天文15年(1546)棚守房顕(たなもりふさあき)と刻印のある擬宝珠(欄干の柱頂部の飾り)がある。 
この高舞台は組み立て式の舞楽の舞台として棚守房顕により作られたものであり、江戸時代初期に現在のような作り付けの構造になったと考えられている。「顕房監将近左守棚」の刻印が今に残る。

          795f8ebc.jpeg              
 
「本社 客人社」
藝州厳島図會(岡田清成立1842年)
復刻版 福田直記宮島町昭和48







【2011/04/23 09:44 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
安芸国厳島神社の棚守房顕(たなもりふさあき)のこと
0a959173.jpeg 
棚守房顕は、父玄顕(はるあき)の子として明応三年(1494)に生まれ、その子は元行である。「芸藩通志」には、佐伯房顕、大永・天文の頃(1521~1554)、棚守職にして社の事を奉行す、大内、毛利の時に當って勞ありしこと、影弘が績(いさおし)に継ぐといふべし、房顕手記一巻あり、今棚守家に蔵す、當時の事を雑記して、社の故事に預ること亦多し」とある。
棚守房顕が名をなしているのは、「後を先へ書き置くなり」としながらも厳島神社の祭りごとの記録、社参者のこと、大内、毛利のこと、厳島合戦のこと、洪水被害の修復に苦慮していること、島中禁制のことなどを記した『房顕覚書』を残していることである。





【2011/04/23 09:23 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
廿日市市 極楽寺 御本尊御開帳
四月十七日(日) 日本三景の安芸の宮島を眼下に望
む、絶景
ビューにある標高663mのもみの原生林に囲
まれた極楽寺山山
上にある上不見山浄土王院極楽寺
において、御本尊 十一面千
手観音菩薩坐像が御開
帳された。坐像高
206センチの一木造りで、およそ千年
ほど前の平安中期の作と伝わる。


寺伝によれば、天平九年(737)行基が当山頂の杉の霊
木で千手
観音を刻み、本堂を建て開山した。その後、
弘法大師が開眼
供養され、寺の再興がはかられた。
極楽寺の変遷について、
諸控に『文治三年後鳥羽院
御願依り佐藤則清再建天文十年四月
焼失永禄五年
八月毛利元就朝臣御再建』とある。
平安中期以降でき
た極楽寺本堂は破損したので、今から
821年前、後鳥
羽院の御願依り、文治三年(
1187)に佐藤則清
(のりきよ・・・・義清・範清とも書く・・・・西行法師の
称)により再建した。ところが、天文十年(
1541)に焼失
てしまったのである。そして荒廃していたので、永禄
五年
(1562)八月 毛利元就が再建したのである。

かって当寺院にも求聞持堂があった。木造板半肉彫
虚空蔵菩薩
(木造版はんにくぼりこくぞうぼさつぞう
)が本尊であり、
現在は阿弥陀堂内にて保管されてい
る。求聞持堂は、百日間、
百万遍の真言を唱える密教最大の苦行であるという
修行の場で
ある。
虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)は『ノウ ボ

 アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ 
ソワカ』の真言を百日間 百万遍か五十日間で二百
万遍、つま
り一日一万か一日二万遍唱和するのであ
る。五十日間だと一日
二回(一回一座一万遍を二座)拝む。一座およそ六時
間を二座
とはまさに苦行である。

延宝年の鐘の鐘銘(しょうめい)によると、600数十メ
ートル
もの山にある当寺の鐘を賊が盗んでしまったと
いう。いったい
どうやって麓まで運んだものやら。古く
は平清盛・大内・毛利・
豊臣秀吉・福島正則などが庇
護していたが、江戸の世に入ると、
徳川幕府は厳島
神社をはじめ極楽寺など一切の寺社に対する支
援交付金は拠出しなかった。そのため極楽寺は、宝
永元年・天
明八年・寛政二年・文政三年(1820)など
の修理は、有力大檀那
の尽力によりなされ、今に伝
えられているのである。

【2011/04/23 09:22 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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