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広島藩の宿駅は、御茶屋(藩主の別荘)が設けられた駅と、庄屋らの居宅や町屋を本陣・脇本陣として宿泊する駅とに分けられる。当宿は寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察に際し御茶屋が設けられたが寛文年間以前に廃しされたようである。寛政七年の「津和野亀井記」によれば、廿日市本陣役は鳥屋市右衛門が勤めていた。その後廿日市本陣役は大庄屋や元禄八年(1695)に宿送り役(幕府の書状や荷物を扱うことを「天下送り」、藩のものを扱うことを「宿送り」と呼ぶ)に任ぜられた山田次右衛門が代々勤めている。幕府諸役人や諸大名の宿泊には、本陣以外にも脇本陣として有力な商人の民家、蓮教寺などの寺院があてられ、その従者や人足の宿舎には一般の民家もあてられた。文政二年(1819)ごろの廿日市には家数六六五軒で、内、西国街道に面した表町屋が三三三軒、その内一二〇軒が「御大名様御下宿二相成分」、一五〇軒が「御同様御雇方宿二相成分」、六一軒が「右御用二付罷出候村役人其外人夫共宿二相成候分」 (みぎごようにつきまかりだしそうろうむらやくにんそのほかにんふともやどにあいなりそうろうぶん) となっていた。表町屋で不足の場合は裏通りの民家もあてられた。公定旅籠料は低く押さえられていたため、利益どころか赤字となり、それも宿駅が負担することになっていた。
廿日市宿の年間旅宿の利用回数について
天保六年(1835) 二十五回
天保十年(1839) 二十一回
昼食所としての利用も二十回
旅宿・昼食合わせて四十五回、四十一回(45÷12ヶ月=3.75回/月、 41÷12ヶ月=3.4回/月)
月に平均三~四回利用されていた。
月に一回大規模な公用旅行者を迎え低い公定賃銀で勤めなければならないため、公用に差し支えなければ、民衆の利用が許され、その場合は当事者間で取り決める相対賃銭(あいたいちんせん)故、相当儲かったようである。
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四月十七日(日) 日本三景の安芸の宮島を眼下に望
む、絶景ビューにある標高663mのもみの原生林に囲 まれた極楽寺山山上にある上不見山浄土王院極楽寺 において、御本尊 十一面千手観音菩薩坐像が御開 帳された。坐像高206センチの一木造りで、およそ千年 ほど前の平安中期の作と伝わる。 寺伝によれば、天平九年(737)行基が当山頂の杉の霊 木で千手観音を刻み、本堂を建て開山した。その後、 弘法大師が開眼供養され、寺の再興がはかられた。 極楽寺の変遷について、諸控に『文治三年後鳥羽院 御願依り佐藤則清再建天文十年四月焼失永禄五年 八月毛利元就朝臣御再建』とある。平安中期以降でき た極楽寺本堂は破損したので、今から821年前、後鳥 羽院の御願依り、文治三年(1187)に佐藤則清
(のりきよ・・・・義清・範清とも書く・・・・西行法師の俗
称)により再建した。ところが、天文十年(1541)に焼失 してしまったのである。そして荒廃していたので、永禄 五年(1562)八月 毛利元就が再建したのである。 かって当寺院にも求聞持堂があった。木造板半肉彫 虚空蔵菩薩像(木造版はんにくぼりこくぞうぼさつぞう )が本尊であり、現在は阿弥陀堂内にて保管されてい る。求聞持堂は、百日間、
百万遍の真言を唱える密教最大の苦行であるという
修行の場である。 虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)は『ノウ ボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ
ソワカ』の真言を百日間 百万遍か五十日間で二百
万遍、つまり一日一万か一日二万遍唱和するのであ る。五十日間だと一日
二回(一回一座一万遍を二座)拝む。一座およそ六時
間を二座とはまさに苦行である。 延宝年の鐘の鐘銘(しょうめい)によると、600数十メ ートルもの山にある当寺の鐘を賊が盗んでしまったと いう。いったいどうやって麓まで運んだものやら。古く は平清盛・大内・毛利・豊臣秀吉・福島正則などが庇 護していたが、江戸の世に入ると、徳川幕府は厳島 神社をはじめ極楽寺など一切の寺社に対する支
援交付金は拠出しなかった。そのため極楽寺は、宝
永元年・天明八年・寛政二年・文政三年(1820)など の修理は、有力大檀那の尽力によりなされ、今に伝 えられているのである。 |