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【註1】草津(くさつ)
広島市西区草津のことで草津城という山城があった。創建は不詳。戦国時代、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏が居城したが、その後安芸守護家たる武田氏、ついで大内氏・陶氏の勢力圏に入った。厳島合戦の前年、陶晴賢と断絶した毛利元就は、天文二十三年(1554)五月十二日、挙兵したその日に吉田郡山城への攻略線上に当る陶方の城攻略のため、二千余騎を従え、佐東郡に兵を進め、大内方の金山城城番栗田肥後入道らを説得し、城を明渡させ次に己斐城、草津城(城番 羽仁氏)、石内、五日市と大内方の兵を打ち破り、廿日市へ進み、洞雲寺に入り、桜尾城に立て篭もる江良氏ほかに城を明渡させ、また厳島を守備していた陶方の深町を島から追い出し、島を占拠したのである。毛利氏は挙兵当日、金山・己斐・草津・桜尾四城と厳島を占領するという快挙をあげた。こうして広島から廿日市に至る沿岸部を抑えた元就は、桜尾城に桂元澄、草津城に水軍の将である重臣児玉就方、仁保島城に香川光景を配し、来るべき陶晴賢との決戦に備え、防備を固めた。児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり、草津の町も大いに繁栄した。このように広島湾沿岸を中心としたエリアは、厳島神社の経済的権益の争奪合戦のため、武田・大内・毛利・陶氏などの奪い合いの時代が続いた。その後毛利氏は、西軍として負け戦となった慶長五年(1600)関ヶ原の戦い後、芸備から防長へ移封となった。 PR |
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