「内侍岩伝説」は、昇進願望が満たされない徳大寺左大将実定(とくだいじさだいしょうさねさだ)が、治承三年(1179)三月、成就を期し厳島神社へ参詣。17 歳の有子内侍(ありこないし)を寵愛。実定が都へ帰る時、有子内侍は、実定の乗った船を追いかけ、この内侍岩に立っていつまでも別れを惜しむ。実定への想いはますます募り、摂津国住吉辺りまで行き、成就ならず、念仏を唱えながら、入水(じゅすい)したという悲恋物語です。
(参考文献:藝藩通志巻16 安藝國嚴島4 古事 藤原實定)
(げいはんつうしまきの16 あきのくにいつくしま4 こじ ふじわらさねさだ)
「音戸の瀬戸」は1165 年、もしくは仁安二年(1167)、「内侍岩伝説」は1179 年の成立です。
徳大寺左大将実定の船は、帰京時、当然、音戸の瀬戸を航行可能であったのに、なぜ、西進したのか。その謎は、準構造船のため、瀬戸内海往来の安全が大優先されたためであったと考えられます。
複雑で速い潮流、しかも危険な狭小の海峡の音戸の瀬戸を遭難覚悟で通行したいと思う公卿(くぎょう)はいません。船頭も身分の高い人物を海に沈めたくなかったということで、危険回避の安全航行のため、京から宮島には、①の航路を西から来て、西へ帰ったと考えれば、疑問は払拭するのです。
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