芸藩通志巻55城墟(じょうきょ)の「桜尾」の項によれば、
『廿日市にあり、海に臨む、相伝う、周防前司(ぜんじ・前の国司)藤原親実、鎌倉より来り、厳島の祠官たり、親実より塁世城居し、十五世興藤、陶隆房等に攻られて、父子倶に滅しぬ、後毛利氏より、桂元澄を置て守らしむといふ、此城もと、蒲範頼の後、吉見氏所築とす』さらに『桜尾、谷宗尾、宗高尾、藤掛尾、越峠尾、岩戸尾、篠尾までの七所を「七尾城」と称す』とある。
中世廿日市を象徴するこの桜尾城が厳島神主藤原氏の居城であった。
(上図:海に面していたころの桜尾山)
また廿日市町史通史編(上)中世山城の遺跡の項では、『かって桜尾城跡は第一郭の三角形の本丸が七百平方㍍、3.5㍍下がって南東に第二郭の二の丸三百五十平方㍍、1㍍下がって第三郭東の丸二百五十平方㍍、南西に第四郭が犬走りで第二郭に通じていた。』とあり、城西麓の居館から登山道が第四郭に通じていたと考えられている。
友田興藤は、大永三年(1523)に続いて再び大内氏に反旗をひるがえした。天文十年(1541)三月九日、十九日と藤掛で興藤方と交戦、大内義隆自身も三月十八日に岩国から大野の門山に本陣を移し、二十三日にはさらに七尾に進んで桜尾城を包囲する作戦にでた。今回の情勢は興藤方に不利と判断した友田興藤に従属していた神領衆の羽仁、熊野氏らは天文十年(1541)四月五日夜半大将への忠義をかなぐり捨て、戦わずして一斉に桜尾城を抜け出してしまった。興藤は城に火を放ち切腹をした。
神主の廣就はというと栗栖氏に伴われて城を抜け出し五日市城に入ったが、翌六日には五日市城も大内方に包囲されたため、五日市城主宍戸弥七郎は神主の廣就を説得し切腹させて、大内方に降伏した。
「棚守房顕覚書」(19)によれば、
『其時ノ有様、掃部頭(廣就)事外精兵強弓成れば、防州ノ陣二矢ヲ三筋射、弓ヲ切リ折リ、腹ヲ切ラル、頭ヲ取リ鞁(かわ)ヲケ(桶)二入レテ、弘中三州二渡ス、三州請ケ取リ七尾ニテ九日御実検ナリ』
弘治元年(1555)の厳島合戦では、桜尾城は毛利軍の本陣となり、陶晴賢に勝利した毛利元就は
桜尾城において陶晴賢の”首実検”を行った。天正十五年(1587)には、九州の島津征伐に向かう途中、あの豊臣秀吉が桜尾城に着陣した。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦後、毛利氏は防長へ転封(てんぽう)となり、毛利氏支配の終焉に伴い、桜尾城は次第に荒廃し、西麓の居館跡地に寛永八年(1631)石州津和野藩の御船屋敷ができた。 (削平前の桜尾城跡実測図)
桜尾城は宮島街道と西国街道に挟まれた標高31㍍の城山で、厳島合戦後、桜尾城主となった毛利氏重臣桂元澄の末裔で、総理大臣を三回経験した山口県出身の桂太郎氏が大正元年(1912)当地に寄贈し、昭和42年頃から阿品の埋め立て用土砂採掘場となり、10㍍ほど削平され、桂公園として今年の春(2011年)も公園内の桜は満開を迎えた。
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