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寛文(1661)から正徳(1711)にかけて諸大名の参勤交代などで西国街道の交通量が増えてからこれに徴発される人馬数も次第に増え、宿駅に常備された人馬のみでは到底賄えられなくなった。これはいずこの諸国も同じ状況に陥っていた。そのため、「助郷(すけごう)」制度が設けられた。宿駅常備の人手や馬で足りなくなると助郷にお触れを出して応援を頼み、人馬の不足分は郡内の村落から徴発しょうという制度であった。 当時佐伯郡には八三ヶ村あり、二四ヶ村を除く五九ヶ村に人夫か人馬が割賦され、また除かれた二四ヶ村の内能実島一六ヶ村、草津、井口、海老塩浜、地御前、黒川、小方は浦方(漁村・海辺の称)に属するため水主役(かこやく)・・・海上交通の義務を負った。負担を免除された飯山・中道は山間僻地で人馬調達の負担に耐えがたく割賦されなかったと推測されるのである。人夫と馬の両方を出しているのは宿駅の廿日市・玖波両駅と倉重村(現 広島市佐伯区)・下平良村(現 廿日市市)・和田村(現 広島市佐伯区)のみであった。これら助郷人馬には、公定の御定め賃銭が支払われたが、低く抑えられていたので到底実費を賄うまでに至らず、その不足は郡・村の郡割・村割の「足銀(足し銀)」が使われた。助郷で割賦された人馬は村全体の責任で果たす義務があり、その賃銭の不足分についても郡村民全体の負担により賄われるべきものとさていた。この助郷役の負担は、村の財政と農民の生活を極度に圧迫する最大の原因となった。
幕府は各街道筋に宿駅を設けて、公用の旅行者や荷物を宿駅から宿駅へと送る伝馬制度を敷きこれに必要な人手や馬を常備することを各宿駅に義務付けた。さらにその補充として、宿駅周辺の村々に課役を負わせたのが助郷(すけごう)制度である。しかし、低廉な御定め賃銭のもとで廿日市宿駅の負担は一層増大し、天保十年(1839)四月に幕府は御定め賃銭の二割り増しを五年間許可するほど疲弊の度を深めていった。
幕末期になると多くの宿駅が破綻寸前に追い込まれていた。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国の通商使節ペリーが来航し長い鎖国が終焉を迎え、極限状態にあった宿駅制度は明治5年、新政府の手で廃止されたのである。
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