元和五年(1619)に芸備両国に入部した浅野氏は、福島正則の交通政策を継承した。 寛永八年(1631)二月朔日 広島藩領内に於ける宿駅間の駄賃を定めた(駄賃定めの初見)。 それによると、馬一匹につき荷物米六斗、人が乗るときはほかに米二斗まで積載でき、駄賃は 一里につき銀三分の割合で定められていた。 高札にて周知徹底が図られ、廿日市は西条四日市と同種のものが建てられた。
広島藩の交通網が画期的に整備されることになったのは、寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察であった。藩は御茶屋作事・道橋・一里塚各奉行を任命し、領内十五箇所に三軒ずつの 御茶屋を設け、道路幅を西国街道は二間半(約四.五メートル)、石見・出雲路は七尺(約二. 三メートル)、村伝いの小道は三尺(約一メートル)に定め、一里三六丁の制が決められ、この 時、一里塚が設置されたのである。廿日市の御茶屋作事奉行には林権大夫が任命された。
翌寛永十一年(1634)にも、巡見使の通行があったので、廿日市から井口にかけての西国街道は、 満潮時になると通行が困難であったため、藩は米田十兵衛・河原藤兵衛を奉行に任命して 道普請を行わせている。
このように近世の交通の制度・施設は、寛永十年(1633)の幕府巡見使の巡察を機に、さらに寛永十二年(1635)から制度化された「参勤交代」によって整備・確立されていった。
西国街道にはその要地に宿駅が設けられた。宿駅は、幕府諸役人や諸大名・公家などの 公用の通行に際し、人馬の継ぎ立てや旅宿・飛脚などの用を果たした。 参勤交代の大名や幕府諸役人の宿泊にあてる本陣や脇本陣を中心に、その従者や一般 旅客の宿泊にあてられる町屋が建ち並び、街道沿いに駄賃定めの高札が建てられていた。
○高札場(こうさつば)
東材木町の北側の建物の中にある。
「廿日市上下駕籠定の事」
「玖波江四里本馬百八十文半馬百五十二文軽尻百廿四文人足六十文広島江三里本馬百廿四文 半馬百四文軽尻七十九文人足六十文」と書かかれており、廿日市が宿場町であることがわかる。
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