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帰途は舩ではなく陸路であった。
東蝦夷地の沿岸を測量しつヽ十月九日箱館 松前に達した。
三馬屋湊(みんまやみなと・現青森県三厩・みんまや)より江戸迄之道中記別紙有之
寛政十一己未(きび)年六月廿七日
御舩神風丸尓乗江戸出帆ス東蝦夷悪消
と云所へ同年八月廿九日入津ス夫より陸地
松前通津軽南部仙臺(せんだい)江掛り江戸江着ス
九月五日悪消出立
十一月十五日江戸着
日数七十一ヶ日道中也
天文方渋川主水手傳堀田仁助門弟
(てんもんかたしぶかわもんどてつだいほったにすけもんてい)
文化元甲子(かっし)年十一月鈴木ヲ改清書□
鈴木周助ヨリ借写 源中控
こうして仁助の門弟鈴木周助の「蝦夷地開発記」の記述は終わっています。
「蝦夷地開発記」は、寛政11年(1799)成立の堀田仁助門弟鈴木周助が記した蝦夷地渡航、東蝦夷地厚岸から松前までの行程記録です。
堀田仁助に関する史料はほとんどなく、その業績は一部に知られているくらいで、一般にはほとんど知られていません。
あの伊能忠敬が蝦夷地測量に向かったのは、寛政十二年(1800)閏(うるう)四月十九日です。五十二歳の伊能忠敬(五十歳の時に隠居後「勘解由かげゆ」と改名)は、知行所から苗字帯刀を許されているので、「元百姓・浪人」身分、「測量試み」扱いとして、師匠・高橋至時(よしとき)の弟子 門倉隼太(かどくらはやた)、二人の測量助手勘解由の二男伊能秀蔵(しゅうぞう・十五歳)、親類の平山宗平(そうへい)、二人の下男佐原吉助、長助を伴い江戸深川黒江町の勘解由宅を出立したのです。
堀田仁助は凡そ1年前の寛政十一年(1799)6月27日に江戸を立ち、御用舩「政徳丸」の後塵(こうじん)を拝し蝦夷地へは二番乗りも、「神風丸」による安全且つ迅速な東蝦夷地への航路開拓に於いて成功であったと云えるのです。
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