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堀田仁助(4) 堀田仁助一行の「神風丸」出立の様子に続いて、
蝦夷地アッケシ(悪消)に到り、江戸への帰路の様子について
三月十三日幕命より104日 いよいよ出立
寛政十一年(1799)六月廿七日、築地で乗船、
翌廿八日、朱塗唐舩、二の丸の帆、御用旗、アヲ・クロ・アカ・シロ・キの五色の吹き流しをなびかせて、品川沖に停泊している「神風丸」に乗込む。
船頭は天明(てんめい)以来御用船の船頭として蝦夷地各地を乗廻した手練(てだれ・腕利き)れの長川沖右衛門、蝦夷地名産の椎茸を見分けに行く杣(そま・木こり)が二人同船している。
寛政十一年(1799)七月一日品川を出発、
翌二日相州浦賀へ上陸して測量の手始めを行う。五日まで逗留。
六日北に向かって壮圖(そうと・壮大な計画)についた。この時は晴に恵まれ順風満帆鹿島灘も無事乗切る。
十三日御用米積込みのため奥州松島湾内小竹湊に入津。測量をし小竹より東南(東名とうな)へ廻って米盬樽(こめしおたる)等積込む。
廿二日東南出帆。
廿三日牡鹿半島小淵に入津測量。
廿四日小淵を出帆したが荒天霧雨に悩まされ海上を五日漂う。
廿九日矢川(女川・おながわ?)に寄港。
七月晦日釜石着。
八月四日宮古灣着。アッケシに直行する宮古に着いたのが、江戸を出て三十四日目であった。
■寛政十一年(1799)七月は大の月で30 日。陰暦⇔小の月は29日。
宮古で逆風のため風待する事廿日間。二度出航を試みるが何れも途上にて風を失い帰港している。
廿五日申刻順風に付宮古を出帆。
廿六日晴。
廿七日晴東西南北白浪斗。此邊(このあたり)浪高サ凡二丈内外、長サ凡八九十間位、至而(いたって)荒潮尓天(にて)候。
廿八日晴巳刻(午前10時頃)遙向尓(はるかむこうに)薄山見る。
廿九日晴暁方蝦夷山速尓見る。
夕方大黒嶋江入無程東蝦夷地アッケシと云所へ申刻(午後4時頃)入津春(す)。
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