堀田仁助と伊能勘解由(かげゆは隠居後改名)両師の天文方内部における権力関係が色濃く反映されているとし考えられません。忠敬は寛政十二年二月から四月十四日、広義のお墨付を得る二ヶ月の間、幾度となく蝦夷地取締御用掛の松平信濃守、石川左近将監、羽太庄左衛門などと会合し、最大の課題である海路を陸路にと、当然、師である天文方高橋至時の尽力もあって結局はよきに計らってもらっています。
それに対して、寛政の改暦で辛酸を舐めた仁助の師・渋川正清(主水)は、五十二歳の仁助が出帆予定の十二日前、寛政十一己未年六月十五日 五十六歳で没しています。
つまり仁助はお上に対して、病に臥している師の力添えは受けられず、淡々と幕命に従うしかない心境であったと考えられるのです。
鈴木周助は三月十三日の幕命より、出立する三ヶ月もの期間の幕府との交渉、幕府からの指示、渡航に際しての測量器具の準備等の事情について一切触れていません。
(神風丸図: 蝦夷地開発記 鈴木周助 15・16頁より 画像ソフトでイメージ加工)
☆★堀田仁助一行の「神風丸」出立の様子★☆
六月廿七日晴未刻御舩神風丸出帆二付 大茶舩二艘[但し一艘五人掛 船頭一人水主四人宛] 御用之御印を付 築地門跡へ着ス御用物積入但し御用物之御品左之通
(■茶舩 河川や港で大型廻船の貨物の運送に用いた小船)
ヲランダ物 同断 (■同断 ほかのものと同じ)
天文御道具 イスタラビ カトラント 御遠目ガ子
御時計 御ジシャク 〆五品於
御本丸若年寄衆立花出雲守殿ゟ堀田仁助へ御渡被成候其外長持一棹但し御紋ユタ ン添御絵付御紋付高張二御紋付箱燈灯二其外堀田仁助持参之品左之通 象眼義
、二糸義、渾天義、天球、地球、星目鑑、其外コマゝ十三品 右茶舩江積入其外堀田仁助荷物并弟子共之荷物等積入申刻南風強二付築地稲荷橋江舟相廻ス 夜二入翌廿八日暁方順風二乗出し品川沖二懸在候神風丸江乗移候 神風丸御舩今年相劦浦賀二おゐて出来スル新舩ナリ
≪神風丸朱塗唐舩仕様 まとめ≫
長サ十九間半、横中幅六間,舮(とも)幅四間、深サ三間、帆柱四尺角二テ長サ十八間半、御舩 御用と書し幟二本、神風丸御舩と書しノホリ二本、
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