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河井継之助 -幕末の長岡藩志-
文政十年(1827)一月一日~慶應四年(1868)八月一六日。父河井代右衛門の子として、越後の譜代藩長岡城下に生まれた。幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」であるが、地元長岡では「つぎのすけ」と呼ばれている。 ( 河井継之助 - Wikipediaを参照)
河井継之助が宮島へ渡った十七年前の天保十三年に成る「厳島図絵巻之壱」に「・・・舊(もと)島號(しまよびな)は恩賀島(おんがしま)または御香島(おんがしま)、あるいは霧島、我島など称(い)へりという説あれど、さだかならず・・・云々」とあり、定かではないが「宮島」の島の呼び名は色々あったのです。継之助は、安政六年(一八五九)九月十八日備中松山を発ち、讃岐・備後・安芸・周防・長門・ 筑前・肥前・肥後・筑後・筑前・海路備後へと西方遊学で見聞を広め、十一月三日陸路備中松山へ帰着した。安芸の宮島には、鞆津・本郷・西条四日市・広島・草津から小船に乗って七日目の九月二十五日朝、宮島に立ち寄って、夜、周防へ船で発つまで滞在している。
旅日記「塵壺 ちりつぼ」で幕末の宮島を訪ねた折の見聞をしたためている。一体何にを興味を持って見聞したのであろうか。 (参考文献: 塵壷―河井継之助日記 校中安藤英男 平凡社 1974年) 「82頁 十 宮島と錦帯橋 廿五日 晴(船中泊)」 |
「大願寺文書」315号により、永禄四年(1561)毛利元就・隆元父子が再建した厳島社大鳥居造立(ぞうりゅう)の祭、「廿日市塩の座新左衛門」が一貫文を寄進していることを前回で触れました。
座(ざ)は、平安時代から戦国時代まで存在した主に商工業者や芸能者による同業者組合のこと。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに営業や販売の独占権などの特権を認められた(1)。 塩は沿岸島嶼部で生産される生活に必需な商品である。廿日市は物資の集積地としての機能を持ち、陸・海上交通の拠点としても重要な機能を果たしていた。 塩座(しおざ)とは中世日本において塩・塩合物(しおあいもの・・塩ずけにした魚)を扱った塩商人による座で、「新左衛門」は座の長(おさ)とか呼ばれる有力商人であったと考えられます(2)。 新左衛門ののち、享保三年(1718)大願寺文書318号「嚴島廻廊棟札寫」札數百十四枚のうち、安藝國(藝劦)・備後國・雲劦・石劦・周防國(防劦)・長門國(長劦)・備中國・豫劦・九劦豊前國・筑前國等からの寄進がみられ、中でも、廿日市からは天正二年(1574)當國廿日市塩屋与三左衛門尉をはじめ、天正十八年廿日市住池田清左衛門尉、天正廿年廿日市住植木清左衛門尉の名がみえる。 註1) 「座」ウィキぺディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7 註2) 「廿日市町史」通史編Ⅰ 廿日市町 昭和63年 424頁. 図) 「廿日市町史」通史編Ⅰ 424頁 「塩の座周辺図」 大願寺文書318号「嚴島廻廊棟札寫」 広島県史古代中世資料編 Ⅲ所収 |
防長経略の年(1557年)に、毛利元就(明応六年~元亀二年(1571))は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居したのち、永禄四年(1561)毛利元就・隆元が大鳥居を再建している。元就が亡くなる十年前のことで
あった。
註1)光明丹 ―顔料の一種で明るい橙赤色。酸化鉛で鉛ガラスの原料や陶磁器の釉などのほか、多く錆止めなど
註2)棟木 ―屋根の最上部に、桁行方向に取り付ける横木。
参考文献:「芸藩通志巻十三」 安藝國嚴島一
大鳥居 文化八年成立 「厳島誌」 重田定一 明治四十三年刊 「宮島本(宮島検定)」廿日市商工会議所 「大願寺文書」広島県史古代中世資料編Ⅲ所収 参考Web:ウイキぺディアフリー百科事典「毛利元就」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1 |