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【2024/05/14 15:39 】 |
厳島神社歴代神主の在任年代と動向(2)
 ★親藤(ちかふじ)
←永享5年―嘉吉(かきつ)3年4月
「厳島社神主家系図寫」(新出厳島文書161号)によれば、永享五年(1433)葵丑(きちゅう)三月廿一日丑尅、客人御前御造営、神主家掃部頭(かもんのかみ)親藤勤仕、云々、とみられ、安芸現地居住の可能性がある。

 ★教親(のりちか)
←文安元年7月―文明3年8月→
教親は毛利氏一族の長屋氏の出身で、前神主親藤の養子となって神主家を相続。幕府内部で細川氏と山名氏の対立から、安芸国においては、山名氏と結ぶ大内氏と神主家、細川氏と結ぶ武田氏と国人領主(毛利・吉川氏など)という二代勢力の対立が生まれ、康正三年(1457)二月保井田で合戦、三月己斐城攻防戦、四~五月佐東郡山本・鳴屋尾・十王堂など佐東・佐西境界で衝突した。応仁・文明の乱で西軍山名持豊方の主力である大内正弘に隋従した神主教親に背いて、東軍細川勝元に呼応し、赤間関で挙兵した正弘の叔父大内道頓(教幸)に加担する勢力「謀反人」が厳島社内部に形成されていた。教親は神主家内部の動揺と東軍方との関係も維持するため、神主の地位を幼い長松丸(教親の嫡男宗親と考えられる)に譲っている。
 

 ★宗親(むねちか)
←文明5年正月―明応2年3月
長享元年(1487)将軍足利義尚の近江六角氏征討へ参陣に神主家代々の嫡子の任官前の通称「四郎」の「厳島四郎」の名がみえる。
 

 ★興親(おきちか)
←永正5年7月―永正5年12月
興親は毛利氏一族の長屋氏の出身で神主家の養子となった教親の子である。兄宗親が本家長屋氏を相続したため、宗親のあと弟興親は神主を継いだ。永正五年(1508)二月将軍足利義稙(よしたね)・大内義興に奉じて厳島より乗船し海路上洛したが、十二月八日京都において病死。興親には後嗣がいなかったため、その跡目をめぐって神主家内部の争いが表面化した。
 

 ★興藤(おきふじ)
大永3年閏4月―大永4年10月
興親の死後、東方友田興藤と西方小方加賀守ら神領衆の分裂抗争が始まるが、大内義興は神主を置かず、神領を直接支配する。義興に従って上洛していた武田元繁は帰国後敵対し佐西郡に討ち入る。大永三年(1523)四月十一日、友田興藤は大内氏に反旗を翻し、桜尾城へ入城し自らを神主と称す。桜尾城の攻防の末、両者は興藤が神主を退き、興藤の兄の子藤太郎を神主とすることで講和する。
 5a0af1e0.jpeg








 友田興藤の墓
(廿日市市佐方 洞雲寺内)


 ★兼藤(かねふじ)
 大永4年10月―享祿元年
兼藤(友田興藤の兄の子藤太郎)は病死のため、四年の在任。
興藤の弟四朗を掃部頭廣就として神主とした。
享祿元年(1528)十二月二十日大内義興は死去し、大内義隆が後を継ぐ。興藤、藤太郎、廣就と替わったが実権は興藤が握っていた。 


 ★廣就(ひろなり)
享祿元年8月―天文10年4月
天文十年(1541)正月十二日、尼子氏に呼応し、興藤は再び大内氏に反旗を翻した。三月十八日、大内義隆は岩国から大野門山、二十三日、さらに七尾に陣を進め桜尾城を包囲した。四月五日夜半、興藤の神領衆羽仁・野坂・熊野氏らは興藤を見限り、一斉に城を退去。興藤一人城に火を放ち切腹。神主の廣就は栗栖氏に伴なわれて桜尾城を脱出し五日市城に入城。翌六日、大内方に.五日市城も包囲されたため、城主宍戸弥七郎は廣就を切腹させ大内方に降伏した。
 

こうして承久三年(1221)以来厳島藤原姓神主家は三百二十年余に及ぶ.神主職を世襲し、佐西郡(ささいぐん)を支配してきたが滅亡した。


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【2011/05/03 21:38 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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