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【2024/05/15 05:42 】 |
厳島神社歴代神主の在任年代と動向(1)
厳島神社の神主職は承久の乱後、鎌倉幕府御家人藤原親実が神主に補任(ぶにん)され、以降神主職は藤原姓神主家というその子孫に継承される。「神主職根本之次第」野坂文書428号より詳細に、神主の動向を明らかにしてみたい。


 ★藤原親実(ちかざね)
承久3年→ 
承久三年(1221)神主就任時-、幕府御所奉行の職にあり、安芸現地に定住することはなく、現地には掃政所を配し、代官を派遣して社家政所の統括、神主職務を代行させた。しかし、祭祀・神社経営の実務は旧来の社家佐伯氏が担当した。建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度の厳島社の火災再建造営事業では七十歳を超え指揮を執ったが仁治二年(1241)の遷宮を迎えた。その後十年神主にとどまり、息子親光が後を継ぐ。


 ★親光(ちかみつ)
←建長7年11月→
親実同様現地に在住せず。「吾妻鑑」建長三年(1251)正月小一日壬戌の項にその名は散見される。また安芸右近大夫親継・安芸左近蔵人重親(建長三年(1251)正月小十一日壬申)、安芸大炊助(おおいのすけ)(正嘉二年(1258)三月小一日辛亥)ら安芸と称する名は神主親光一族とかや。
(廿日市町史通史編(1)神主家と社家)


 ★親定(ちかさだ)
←文永11年12月―永仁2年3月→
「吾妻鑑」正嘉二年(1258)正月大一日辛亥に安藝掃部大夫(かもんのたいふ)としてみえる。


 ★親範(ちかのり)
←永仁6年12月―乾元(けんげん)2年→
親範は老父親定の病気平癒を厳島明神に祈願し、効験があったので、みずから願主となり藤原為世や京の歌人達が名を連ねた社頭和歌一巻を奉納している。京都における交友関係に重きがおかれていた様子が浮かぶ。また鎌倉期は神主は定住せず、「預所」、「神主代」ともいう惣政所に、権限を現地で代行させていた。しかも社家・社領の支配に関する点は下文や下知状を発給し、神主の指揮命令系統等の確立・強化・整備がなされた。


 ★親顕(ちかあき)
←正和5年3月―建武3年正月
京都に居住していたようである。正応二年(1333)正月、六波羅から天王寺に下向し、楠正成らの倒幕勢力と戦。建武三年(1336)正月十六日の小幡合戦で討ち死にす。南北朝動乱による武家・荘園の争いは、厳島神社の従来の支配の根幹を揺るがすもので、新たな対応にせまられることになった。


 ★親直(ちかなお)
建武3年 ? ―至徳(しとく)2年7月→
神主親顕が討死にした京都攻防戦で敗れた足利尊氏は、海路九州に逃げて勢力回復を図り、東上途上、厳島神社に参詣して天下太平の所願成就を祈念し、造果保(ぞうかほ)を造営料所として寄進した。その後厳島社は足利将軍家の崇拝を受ける。

 造果保寄進18年後の文和三年(1354)、将軍足利義詮(よしあきら)は小早川一族の小泉氏平に造果保を預け置いたため、両者による造果保を巡る争いは紆余曲折を経て長期化した。親直は貞治五(1366)・六年に大内弘世の安芸進出に呼応し、保内に城郭を構え実力で造果保を占拠すべく、応安元年(1368)から翌年合戦に及ぶ。

 鎌倉御家人藤原親実の神主職から始まる神主家は神官として祭祀に直接関与することはなかったが、南北朝動乱により、社領を武力と幕府への訴訟という手段で維持しようとする親直は、国人領主(在地領主)への脱皮を図った。


  ★親詮(ちかあきら)
←至徳4年3月―応永4年3月→
親詮は応永四年(1397)三月、幕命によって少弐氏征伐に出陣した大内軍に従い、豊前小倉で陣没している。


 ★親弘(ちかひろ) (親胤ちかたね・親頼ちかより)
←応永4年7月―応永18年12月→
先の野坂文書428号「神主職根本之次第」では、親弘とあるが、廿日市町史通史編(上)では親胤(ちかたね)としている。
 
 応永六年(1399)の応永の乱で、神主親胤は大内義弘に従い堺に籠城し南口において幕府軍と戦い、義弘戦死後、弟弘茂らと降伏。親胤はほどなく罪を許され神主職に復して親頼(ちかより)と改名している。系図に親詮の次に親弘(親頼)をあげ、親胤を上げない理由といわれる。
 
 応永の乱後、幕府は備後・石見・安芸の守護職を山名氏とし、大内勢力の一掃をは図るも、吉川・小早川氏ほかの安芸国人三十三名は応永十一年(1404)九月、五ケ条の一揆契状を結び新守護山名氏の国人圧迫政策に対抗。神主親胤は「厳島 安芸守親頼」の名で28番目に連署し一揆に加勢した。

 
 ★親景(ちかかげ)
←永享3年8月→
野坂文書 428厳島社宮居年記并神主職次第では神主親景とあるがなぜか不詳で謎である。

親藤(ちかふじ)につづく



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【2011/05/03 21:36 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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