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【2024/05/15 23:03 】 |
堀田仁助(10)
◆歴史の陰に葬り去られた功名を論ぜられぬ裏事情とは◆

堀田仁助の東蝦夷地航路開拓の翌年、寛政十二年(1800)「伊能忠敬の蝦夷地第一次測量 幕府への交渉記(測量日記第一巻)」四月七日の項上下段(下図加工図)にあります。そこには明らかに“仁助の功成り名遂げられぬ要因”が行間から読み取れるのです。
 
伊能忠敬の「測量日記第1巻」 11~12頁
「寛政十二年(1800)四月四日 目付羽太左衛門より伊能忠敬の師高橋至時へ手紙、伊能勘解由事七日四ツ時(午後十時頃)松平信濃守宅寄合へ差出すようにとのこと。
細身権十郎の案内で書院番頭松平信濃守忠明宅の奥の間へ罷出(まかりい)で、信濃守、勘定奉行石川、目付羽太列席の次の間に而(て)、信濃守に「堀田と図」についていろいろ尋ねられるのです。
勘解由は海上は不得手の上、長々の船中は難渋と申し上げる。」
勘解由の本心は師高橋至時に指摘された「子午線一度の長さ(緯度一度の南北の長さ)」を求めることと、幕府直捌(じかさばき)の東蝦夷地の警護のための精密な地図を作ることにあり、陸路でないと正確な測量ができないことから、船は難渋と官僚に丁重に断ったという、したたかさが垣間見えるのです。
「その後信濃守は「海上測量は向後(きょうこう・今後)御船通航之為、堀田仁助へ測量申付致為候(もうしつけいたさせそうろう)。
是(これ)も帰りは乗船致さず、陸を帰り候(そうら)はば不埒之(ふらちの)よし仰(おうせ)せらるる候(そうらえ)て・・・(中略)・・・堀田仁助を存じ居(お)り候哉(そうろうや)と再三仰(おうせ)らるる候間(そうろうあいだ)、存候(ぞんじそうろう)と申上候(もうしあげそうろう)。・・(中略)」
信濃守は今後の海上交通のため、堀田に船上での測量を命じたにもかかわらず、帰りは陸路とは不埒(けしからぬ)と激怒したのであろうか。・・・これが仁助の事蹟の致命的な評価の要因か・・。
さらに勘解由に堀田を知っておるかと再三聞かれ、存候と申上候 と云ってますが、派が違うためと、日々多忙で、おそらくほとんど接触ははなかったでしょう。
「信濃守様御自身蝦夷之図を二枚御出し被遊、此の内一枚は堀田仁助が去年致す所なり。麁(そ・大まか)なるべけれ共、大差もあるまじ、・・・(中略)」
ここでとくに解(げ)せないのは、何故、信濃守は、「不埒之」とか仁助の事績を否定するようなことを、わざわざ伊能忠敬に話すのかということです。
奇(く)しくも、「寛政の改暦」で辛酸を舐めた仁助の師・渋川正清(主水・もんど)は、五十二歳の仁助が出帆予定の十二日前、寛政十一己未(きび)年六月十五日 五十六歳で没するのです。この時松平信濃守は松前に滞在していました。
伊能忠敬は寛政十二年二月から四月十四日、広義のお墨付を得る二ヶ月の間、幾度となく蝦夷地取締御用掛の松平信濃守、石川左近将監(さこんのじょう)、羽太(はぶと)庄左衛門(のちに「休明光記」を著わす)などと会合し、最大の課題である海路を陸路にと、結局はよきに計らってもらっているのです。
堀田仁助の東蝦夷地航路開拓の翌年、寛政十二年に羽太は蝦夷地取締御用掛の松平信濃守のもと、幾度となく伊能忠敬の蝦夷地第一次測量の幕府への交渉に立ち会っており、羽太はその間の事情は熟知していたのは明白です。にもかかわらず、羽太正養(はぶとまさやす)はその著「休明光記巻之1」文化4年(1807)成立において、錯誤の記述をしているのは、何か裏に歴史の陰に葬り去らなければならない事情があったと考えられるのです。


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【2011/04/22 12:17 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0)
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